文字に対する懐疑




■文字による伝達は一見効率がよさそうに見えるかもしれんけど、かなりトロい伝達手段のような気がする。そんで文字は声と違って残るし、鬱陶しいというのもある。ぼくはメールも人並みにするし、気が向いたときに手紙も書くんやけど、最近できるだけ電話を使おうとしているからか、文字というものがやけに鬱陶しいものになるつつある。ぼくは子供のときから話すことがめちゃくちゃ苦手だった(国会中継とか見てて、この人らすごいなあと思っていた)ので電話をするのはいまでもすごい億劫がるんやけど、声を出す−聞くということのほうが細かいニュアンスまでダイレクトに伝わってくれるし、いい間違いやいい詰まりが許容されるのとそうでないのとでは大きく違うと最近はよく思う。文字より声のほうが雄弁だということかもしれない。文字は書き間違いが発信する側にも受け手にも前提されていないから、つまらんなあとも思う。(ようは文字はノイズをカットしているだけか)。そんで、話すのが苦手だったっちゅうのは一時期強烈なコンプレックスになっていて、言ってることがめちゃくちゃでよう分からんといわれ続けたことがあった。わけのわからんやつと付き合ってたからかもしれないけど、それは今でも続いているよーないないよーな。






■最近煙草を吸いながら歩いてる女の人が増えているような気がするけど、気のせいかな?トレンチコート着て、煙草をはさんだ指先をぴしゃっと伸ばして、颯爽と歩く女の子。本物の娼婦やったらほんまにかっこええけど、会社帰りとかそんなんやろな。でもかっこええです。やっぱり誰が吸ってても煙草吸う仕草ってどっかで否定性とか抵抗とか嗅ぎ取ってしまうのよ。かっこつけてるとかそういう以前に。煙草吸っている女の人、応援したくなります。ぼくは煙草が1000円になっても吸い続けたろー思てますよ。






ペレルマンの『説得の論理学』を読む。ヨーロッパの義務教育で歴史的に継続していたレトリックという学問が近代になって廃れてきて、日本ではレトリック学がまったく無視されてきたんじゃないか、と思った。人を説得するのは大変やし、説得せな前に進まない時期やから、読んだ。これは妻の本で気になってこっちに持ってきた本。