『死んでもいい』



は、むかし京都の朝日シネマ(現京都シネマ)で映写していた映画で、最初から最後までちあきなおみが流れる予告編がすごい好きだった。当時、本編はいまいちだったが、今日見直してみるとすごくいい。感受性が変わったのだろう。石井隆映画の中では郡を抜いていい。どのシーンも構図が鋭角的でフレームの中がやけにすっきりしているのだが、やわらかい光線や雨などの自然現象(雨はあからさまに降雨機で降らせているのは分かるのだけど)を強調していて、水という物質の知覚が網膜に残す澱みと三角関係がずるずると続いてしまう親和性があいまって、たんに角のとんがった三角関係ではなく、楕円になったり、円になったり、時には二等辺三角形になったりする三角関係が非連続的に続いていくような間歇性が物語という枠を超えて、ある種の抽象性に達しているようにも思えた。それを「関係性のどうしようもなさ、不可抗力としての関係性」とも言ってもいいのかもしれない。




冒頭、薄暗く、古ぼけた大月駅山梨県にあるのかな)のプラットフォームで流れ者の永瀬正敏がゴミ箱にコーヒー缶を遠くから投げ捨てる。なぜ遠くから放るかと言うと、ゴミ箱に入れば、右に行き、はずれれば、左に行くという賭けを試みるからだ。コンクリートにカランカランと缶が鳴り響く。永瀬は、そして、自分の手で缶を拾って、ゴミ箱の中にポトンと落とす。この二つのささいな動作(放る→拾う)のあらわれだけで、流れ者の体や心に刻まれた虚無感の厳しさと、これから流れ着くであろう新たな現実とのぎりぎりの葛藤みたいなものが圧縮されているような気がした。(もちろん全部見終わってからそう思った)。この「賭け」という要素から偶然、改札口を出たところで、赤い傘をさした大竹しのぶとぶつかって、どういう因果で彼女に欲情したのかは知らされぬまま、ふらふらと大竹のあとを永瀬はついてゆく。もちろん雨降る中を。そして、ガラス越しで、濡れた大竹の脚をタオルで拭く大竹のかがんだ姿勢。永瀬の欲情はここで決定的になる。




このシーンの前(ほんとの冒頭のシーン)では永瀬が電車内のシートで横になっている。「次は富士急アイランドです。」という簡素なアナウンスが告げられ、カメラはローで前進してゆき、ある地点でまったりとカーヴする。永瀬の耳からはずれた小型音響装置のヘッドフォンを中心にカメラは寄りを決める。そこで、蚊の鳴くようなスライド・ギターの音がわれわれの耳にかろうじて届くだろう。このわずかな音の現実が『死んでもいい』のすべてである。ここまでが1カットの長廻し。動く電車の中でレールを敷いてとったのだろうか。すごく滑らかな移動。




演出も圧巻だ。永瀬はサディスティックなまでに、大竹の旦那(室田日出男の演技がまたすばらしい)を追い詰めてゆく(この追い詰めぶりが無根拠というか無意味というか、なんでここまでするのかが最後まで知らされないのがまた良いし、途中から大竹を奪うのではなく、室田をこの世から消すという方向に変わっているという方向転換が過剰にエスカレートしてゆくのが良い)のだが、この脅迫の過程で身体がたんなるモノであることが露呈されてゆくというか、身体をとりかこんでいる物質のすべてが三人の運命を占なっているというか、モノがただそこにあるという異様なまでの緊張感が最後まで続く(強姦する永瀬の手がつかむ大竹のワンピースの最高度に伸びた感じとか、カーテン屋でなびくカーテン−遮蔽幕の揺らぎとかも含めて)。そして、ついに永瀬の握る大型スパナによる一撃によって室田の身体が絶叫とともに滅び崩れ、血塗られたバスルームのカーテンがモノモノしくも無情に、たらんと垂れ下がるのが映されるまで、この緊張感が解かれることはない。ベッド上で細身の煙草を吸う大竹の爪が朝の光に反射する。クローズ・アップ。




意味がないことの意味。無意味の意味の強調。いや、無意味も意味も超えようとすることの強調。「なぜか?」という問いに「なぜならば」という後付けを一切拒否している映画。 「なぜ私はいるのか?」という問いに「おかんとおとんがセックスしたから」というほどの、モノモノしくも、当たり前な答えに落胆しもするが、納得もする映画。永瀬正敏は、やけくそで、しみったれていて、お道化ていて、悲しくて、絶望的で、狂騒的で、空虚で、そして充実している。悲劇というよりは悲喜劇に近いのだろう。『死んでもいい』(1992)。DVDのパッケージには洋題に使われていたのだろうか、「Original sin」とプリントされてあった。