読書ノート 8





■  長尾真   『情報を読む力、学問をする心』





「私は中学生の頃から全人的に生きたいと思っていた。何かに片寄らず、バランスがとれ、全てを理解し、しっかりした判断力を持てるように努力すること、そして常に神の存在を意識することに努めてきた。」・・・という書き出しで始まる現国立国会図書館長の自伝がミネルヴァ書房より出版された。



長尾真、知らない人も多いかと思うので、まずは簡単にプロフィールを記しておこう。



長尾真氏は1936年に大阪府枚方市で生まれ、1959年、京都大学工学部電子工学科を卒業したのち、同大学の助手、助教授、教授のポストにつきながら、コンピュータ・サイエンスや人工知能の研究に従事、そして1997年から2003年まで第23代京都大学総長を務めたのち、2004年に情報通信研究機構の初代理事長に就任、2007年より、国立国会図書館の館長をつとめている。





さて、日本に限らず先進諸国の図書館では実施されているだろうが、現在「図書」という媒体形式において、急ピッチで進められているのは「文字データのディジタル化」、いわば図書館の電子図書館化である。i-padやキンドルの発売に伴っているのかどうかはさておき、今年は電子書籍元年といわれ、雑誌の特集記事にも「電子ブック」などのハイテクノロジーの関連記事は多く扱われているようだ。ここで、容易に想像できることかもしれないが「ディジタル化」について少し触れておきたい。




そのまえに少々迂回してみよう。図書館というパラダイムをきわめて平易なレベルで今一度復習しておくために。




さて、文字はなぜあるか?それは、いうまでもなく、文字を使う書き手がいるからである。文字の同一性を<それとして>保守する「書き手」というステイタス、いうまでもなく、この「書き手」がいなければ、文字は、それ自体自律性を失ってしまうのだ。近代のパラダイムにおいて、「書き手」から出力された文が、書物や雑誌という形態(フォーム)に還元されると同時にISBNコードを付与され、書店や図書館に流通する。そして、それらの諸形態をさらにメタレベルから抽象化し、秩序化するために、図書館においては、(あるいは図書館法に基づいては)簡潔な書誌情報が与えられる。端的にわれわれは、この書誌情報にのっとって、知の海を泳いでゆくといってよい。書き手と読み手の相互作用から生まれる「知の交換」、「知のコミュニケーション」、そのすべての媒介性(メディア)を物質化した書店や図書館が、いわゆる「近代知」「脱近代知」を形成する上で大きな役割を果たしてきたのはいうまでもない。




ところで、日本で採用している図書分類(ジャンル化)は戦後アメリカで発生した「プラグマティズム」に属する哲学者デューイ(1859-1952)がつくった分類法に負うている。(ちなみに「プラグマティズム」は、日本では、例えば鶴見俊輔によって果敢に紹介された・・・全集『アメリカ哲学』を見よ)。デューイの分類法に詳細に立ち入る余裕は今はないが、開架式の図書館にゆけば、並列化したジャンル、例えば「<0>は哲学に相当する」ことなどをすぐさま可視的に捉えることができるだろう。





それはさておき、ここでは「森羅万象のジャンル化=コード化」こそが「歴史的に作られたもの」だ、ということに気付けばよい。さらに、「書かれたこと」が、すでに「何かについて書かれたこと」と見なされることにも注意を促しておきたい。<何かについて>のフレーミングに、一定のインデックス(指標)を与えるため、デューイの分類法が必要なのである。ここで、形式と内容が一致する。この「一致させる」という操作こそがメタレベルにある「図書館という形式(器)」と下位レベルにある「書物という内容(中身)」を橋渡しするのだ。繰り返すが、これは歴史的に要請された操作に他ならない。そして、かつては情報カードに記された書誌情報において標準化されていたものが、今や「OPAC」 という図書館独自の検索システムによって代替され、情報収集の効率化、合理化に貢献している。(僕は情報収集の効率とかあまり考えない方だし、「情報」という概念自体に若干の齟齬を感じたりもする、それはいつもしっくりこないものだけれど、とりあえず、そういうことになっている)





膨大にストックされる書物をメンテナンスし、サスティナビリティ(持続可能性)を与えてやること、つまりは「国の財」として、書物(ブック)をまずなによりも資料(マテリアル)として概念的に位置づけ、扱うこと。これが図書館の存在論的価値を枠づけるもっともたる理念だった。その理念を踏まえた上で詩や、散文、論文などの「書かれたもの」、映像情報、画像情報、音声情報、音楽情報をも含め、それら出力系統を可能な限りオープンにし、資料探査(たんなる暇つぶしの読書であれ)の価値を最大限に押し広げてゆくことが、いわば図書館の一般的な役割だったのだ。





基本的にディジタル化もこの理念の延長線上にあるといってよい。この作業においては、「たんに書かれた文字や印刷された文字」を電子光学的な手段で撮影し、文字解析のパタナイズをすすめ、ベーシックな言語形式にそっくりそのまま落とし込んでゆくことが、メカニカルになされてゆく。それは「ディジタル時代の趨勢」というよりも、「たんに紙が劣化する」、「著作権の切れた書物からネット上で開放し、わざわざ図書館にアクセスしなくても読めるようにする」というある種の「効率化」の所産であることにはちがいない。





石に彫られた墓碑銘や遺言、パピルスに書かれた散文や詩から、グーテンベルクの印刷技術によるテキストを経た現在、コンピュータや携帯電話やゲームやiーphoneなどの諸端末において読まれる「電子文字データ」こそが「読まれうる文」として、いよいよもってマジョリティの支持を得てきた、というべきなのだろうか。そしてアメリカのグローバル企業体、グーグルやアマゾンが電子図書館のコンセプトと同様に文字データのディジタル化を大規模におこなっているという。物質レベルにある文字情報と電子レベルにある文字情報の「二層化」は急速に進んでゆくのだ。





さて、「ディジタル化」。こうして言葉で整理してしまえば簡単だが、しかし、今述べた図書の現在形に立ち会うまで、さまざまな想像を絶する(というよりも最先端科学の領域での事象なので易々と一般化されえない)ドラマがあった。その特異なドラマを一身に生きてきたのが長尾真氏に他ならない。(氏はたんなる天下りの人事で図書館長になったわけではない、とういうことは強調しておいたほうがいいかもしれない)。






この書を読めば、多くの人が感じるだろうが、情報科学という分野においては、MIT(マサチューセッツ工科大学)と並んで京都大学は世界的な先駆だった、と言っても過言ではないだろう。そして「情報科学の草創期」はプレ大阪万博期にある、と区切りをつけておいてもいいかもしれない。実際、長尾氏の研究グループもNECなどの企業体のテクニカル部門と手を組んで、顔の認識装置を開発し、住友館の中でデモンストレーションをおこなったらしい。(それは来場者がテレビカメラの前に座ると線描化された顔がプリントアウトされ、「あなたの顔は●●に似ていますよ」といったことを教えてくれるサーヴィスだ・・・・余談になるが大阪万博の三菱鉄鋼館ではギリシャ生まれの現代音楽の作曲家クセナキスと、言わずと知れた高橋悠治のコンピュータ・レギュレイトによって制作された「音楽/照明」のコラボレーションがおこなわれていた・・この模様は『クセナキスのポリトープ』というグラフィカルな豪華本に採録されている)






万博以後、長尾氏や氏を囲む研究グループが実践してきた画像情報処理や、コンピュータによるパターン認識、自動翻訳システムや人工知能開発にまで至る<研究−学術>は、1994年に「電子図書館アリアドネ」という先駆的なプロトタイプを開発するに至る。当時は少数者(研究者の内部)の中でしか出現しえなかったこのアリアドネが今や大衆に向けて作動する、そんな時期にさしかかっているのだろう。(ちなみに、アリアドネが画期的だと思われるのは、文字を音声合成ソフトウェアを用いて自動朗読してくれることと、辞書引きが簡単にできること、関連テキストを自動的に探し出してくれることなどである)。







電子図書館化に至るまでのさまざま実験、たとえば「0」と「1」という文字表記を電気信号に変換するためのシステムを作ることから始まっている「文字の電子化」は旧来的なタイピング(タイプ・ライティング)という行為のもつ意味をも拡張してゆくだろう。(そういえば、タイピングという行為こそが、ディジット(指と指の間)という概念を正当化するものだった)。





そして、自伝というニュアンスから離れても、とても面白い読み物になっているこの書物は、「広告とマスメディアに彩られた電子情報網的現代世界」の最深部を再び照らし出すためにも有効であるのだ。





現代においては、次から次へとテクノロジーが更新されていく。つまりは企業が手を変え品を変え、黒字成長の見込みを立てる一方で、新商品のガジェット化も急速にすすむ。われわれが、それらを一様に「風景」として傍観することは可能だし、やみくもに「最新」とつきあうのも可能であるが、「最新」が「最新」であるがゆえの、それなりの「歴史」がある、ということを認識することの方が、あえて、われわれが「テクノロジーの普遍性」を考えるならば有効だろう。(・・それに「古い/新しい」という関係性自体が古いのだとも言える)。そういうことを極めて具体的な経験をレファレンスしながら書かれた一人物の自伝が、この『情報を読む力、学問をする心』なのである。






おそらくは1957年のスプートニクの打ち上げ以降、サイエンスの前線は「宇宙工学」にあるのだろう。しかし、一方でネガティヴな動機として、「戦争テクノロジー」(いわば防衛科学技術だ)の先鋭化に膨大な時間と研究費が費やされ、一定の期間を置いて、「テクノロジー」が民間企業に譲渡される。(券売機のタッチパネルが戦闘機のコックピットのそれから来たということくらいは知っておいた方がよいだろう・・・ちなみに最新技術の民間への譲渡を「スピン・オフ」と言う・・逆のケース、民間から上に行く場合は「スピン・オン」と言う)。そういう意味では、i-podもi-padも形状記憶シャツもフリースも「いったん格下げされたモノ」なのである。最先端科学が戦争テクノロジーと否応なく結びつき、不用になったテクノロジーが、次々に民衆化、大衆化される。そうしてはじめて、資本主義がそれ自体に<差異>を充填することができるのだ。つまるところ「新しさ」というのは国家、あるいは国家間の防衛戦略機構がなければなりたたないのである。(ちなみに僕は、JAXA宇宙開発事業団)が定期的に発行している「スピン・オフ・リスト」に目を通したことがある)。







(重要なのは、「科学とはそれが盲目的に信仰された時点で戦争信仰と表裏一体の関係を持たざるを得ない、それゆえに戦争信仰者が科学哲学者を標的にする」というパターンが成り立つ、という認識をあらためて想起しなおすことだろう。・・・・たしかブライアン・デ・パルマ監督の『ファントム・オブ・パラダイス』はそういった「国家によって飼い殺しにされるサイエンティストの悲劇」を見事に描いていた)。







ここで個人的なことを。昭和14年生まれの僕の父親が京大出だったり、学祭や学食や西部講堂での映画上映会やライヴパフォーマンスや、ウィークエンドカフェ(学生寮を改良して、週末だけオープンしていたカフェ・・・・京都のゲイ・アクティヴィストが多く集っていた)に行ったり、現在、国会図書館でバイトをしていたり、そしてなによりも、館長の娘さん(次女)の長尾文子(彼女は京都では「スワニー」というあだ名がつけられていた)が大学時のキャンバスメイト、というよりも遊び仲間だったり、スワニーの(当時の)彼氏の大坪君(それはそうと彼はイタリアから帰ってきたのか?!)を主演男優にして『ネッカチーフ』(1997)という映画を撮っていたりで、ちょっとした親和性をかんじざるをえない、そんな感慨深い読書だったにはちがいない。・・・そういえば、京都時代に、どういうわけか長尾氏の家におじゃましたこともあり、縁側のようなところにある著者の書棚をチラ見してしまったことがあった。その中にソール・クリプキの『名指しと必然性』があったのをはっきりと覚えている。(当時僕はクリプキの理論を扱った柄谷行人の『探究2』を、可能世界意味論の無意味性の書物(いわばSF批判)として読んだり、一方で斬新な映画理論として読んでいた(特に「観念と表象」)からだろう。)




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長くなってしまった。・・・最後に、次女の「スワニー」こと長尾文子とのメールのやりとりで、彼女の姉にあたる長尾宣子さん(画家)が昨年、逝去されたことを知った。『情報を読む力、学問をする心』の口絵カラーページに、生前の姿と絵画「今日もごちそうであるために」の写真がおさめられている。場違いも甚だしいが、この場を借りてご冥福をお祈りしたい。(2010−11−01)