メモ11 記憶の裏側




■ 記憶の裏側




群衆のなかからなぜかある顔を数秒間えらびとっていて、その顔が誰かに似ていても、まったく想い出せず、しかしもう少し経つと、不思議なことに想い出している、この顔は誰かに似ている、それもベンヤミンのいう「ショック作用」に近いものとして、誰かが誰かに似ていることに気づく、しかし、その顔にたまたま遭遇しなければ99、5パーセント死ぬまで思いださなかっただろう、その人とはまったく話したこともなく、名前も知らず、顔貌だけをぼんやりと憶えていたのか、いや、憶えていないどころか、記憶の古層の古層のまた古層、どこまで深く探っても、決して想い出せないような、ぼんやりとした像があるのか、ないのかさえわからない、そういう状態に前から興味があって、記憶の裏側と夢の裏側がどこかでつながっている、としかいいようがない。記憶はどこにあるのかといえば、完全に脳のなかにはないのだと、確信をもってそういえるし、そういわねばならないことが、必ず必要となってくる。無辺、無縁のこの世の記憶、この世があることの「信」の記憶と、それがつづいてゆくことへのかすかな期待の記憶は、こういう時間差、空間差から反省的に垣間みられるような実在論的な仕組みとしてあり、決して外側からあたえられる所与の情報によってではない。という意味で、身体の現在的なあり方が<かろうじて>あるのだとすれば、食べるのも、寝るのも、歩くのも、走るのも、身体の外側に敏感になってゆけば、それだけ行為のテロスが奪われて、時計やカレンダー、時を刻む音さえもますますもって無意味なものとして、この目に映る。どこを生きているのか、だれを生きているのか、どのように生きているのか、ますますもってわからないという生き方、というわからなさを押し広げてゆくことによって、はじめて生を理解しえたと思えることで、ホっと胸をなでおろせるような瞬間。(5月10日)