かつてカフカを読んだこと。これから読むであろうこと。高校生の頃、日曜日に電車にのって御所に行き、読書する習慣があった、といっても一時期なので、10回ほどだったが、ある日、『流刑地にて』を読んでいた。しばらくすると、初老の人がベンチの隣に座り、「なにを読んでいるのか」と聞かれ、驚いてそそくさとページを指でつまんだ状態で表紙をさっと見せると、「面白いですか?」と非常につまらなさそうな顔で聞かれたことがあった。そのときは面白いかどうかわからなかったので、てきとうに「面白いです」と答えたことをぼんやりと憶えている。ブルドッグ顔の初老の人はすぐにどこかに消えてしまった。『観察』を読んだのは20代のはじめだったか、吉田仙太郎訳の縦長の白い本(奥付を見ると京都の出版社だった)で、あとがきにカフカの遺言のことが書いてあった。それは、友人のマックス・ブロートに宛てたもので、「『観察』を出版することがあるなら文字を大きくして欲しい」とカフカはブロートに告げていた、と書かれていた。その書は、全集版やアンソロジーに収められているものとはちがって、遺言とおりの大きな文字で印刷されたもので、独特の印象をもたらす、ひらがなの曲線がきわだち、漢字の格子状の線がきわだち、文字が連なって、いちおうの意味をもたらすものでありながら、なお文字が映像でもあることをやめず、目で読みながらも目で文字に触れているという二重感覚があった。梶井基次郎の超短編、エッセイとも詩とも散文とも小説ともいえない、<非–私景>の一断片の記述に似通っていたとも思える。
とらえがたい行動、理解不可能な。出口をさがすために、いや、出口がないのをわかっていて、迷路を大急ぎで走って、息切れして、それを何度も何度も繰り返し、はあはあいっているときに、ふと何かが見える、靴先に、はあっ、なんと風変わりな新生物だことかっ、と一瞬びっくりしたが、よく見るとただの石ころだった、それでもその石ころを新生物だと信じて疑わず、通りすがりの迷い人に「ほら見ろよ、これが、オドラーテックだ。」と自慢げに、嬉しそうに、見せびらかす、迷い人も結局は迷っているので、石ころをオドラーテックだと信じてしまうのにそうそう時間はかからない、「なるほど、これはまさにオドラーテックだ」、というようなハイパーアナロジックな世界。
キュっ、キュっと、音を立てながら旋回する『カフカノート』、順回転、逆回転、変拍子、加速、減速でギクシャク動く扇風機の羽根のような。そして、おかっぱ頭をした女性の瞳孔のひらき方の可笑しさと、全体の役者の生真面目さのアンバランス。(5月9日 つづく)