イマゴン、起動の前提



■イマゴン、起動の前提





国家的形式のひとつ。たとえば図書館の配架法においては、映画はスポーツと大衆娯楽に隣接している。音楽、美術、建築からは分離され、距離をたもたれ、「映画」というジャンルの固有性(イメージ)は20世紀的な領域を保持したままでいる。これ自体がひとつの決定的な地層なのだ。地層の解析。たとえば映画、スポーツとはまさに20世紀の労働者が必要としたレジャーでもあった。映画の監督、スポーツチームの監督、そして建設現場の監督はレジャー産業に内属可能な人員として組織された。いうまでもなく監督(超越者)は、演出の指示を出し(映画)、選手にサインを送り(スポーツ)、労働者に「石板を持ってこい!」と指示を出す(建設)。ヒエラルキックな組織図こそは近代そのものの明確な隠喩であり、そこには厳格なルール、法的規制が充填されていた。組織がおおがかりになれば、それだけルールは不動のものとなりやすい。変更不可能なルールは、さらには歴史=伝統を硬直させてゆく。これが20世紀モデルの国家的形式のひとつのイメージだった。そのような古地層に埋没し、吸収されてゆくばかりの「イメージ=監督」にたいして、「イマゴン=作家」はどのようにして、起動し、機動をしかけてゆくべきか。いうまでもなく、イマゴンは機敏な単独兵であり、冷酷無比な単独作家であり、しかもアメーバのように柔軟な組成のもとで変幻する無形組織である。ルールの組み換え、書き換えを俊敏におこなうために、目の前に現れるイメージを分析し、操作されたイメージをすぐさま操作しなおし、あけっぴろげに提示する目論見である。流動性のイマゴン、探査機としてのイマゴン、まずはいっさいの制度を嗅ぎ分ける狂犬となれ。