それがドライカレーのある食卓であれ、ハンモックのある海辺であれ、ある瞬間に「撮りたい!」と思う対象があってそれをカメラで撮るとする。そして「どんなふうに撮れたのか」見直すとする。「こんなんじゃない!オレが撮りたかったのは!」と、撮影者が叫ぶとする。その「叫び」の方が実際の写真よりも遥かにリアルである(場合がある)。<叫びー差異のリアリティ>は技術に回収される。「i-photo」などのアプリケーションで「明るさ」と「コントラスト」のダイヤルをいじって画像修正するとする。そしてほんの数秒の作業において「そうだ!俺が見たのはこれだ!これを撮影したかったのだ!」と彼はにんまりすることができるのだ。彼は一枚の写真を手に入れたと思う。だがそれは何によって可能になったのか?カメラではない。カメラを含む技術の総体なのである。(あたりまえだけど)。





今日は偏頭痛がひどかった。食べるものを求めにスーパーに行ったのだが、母の日がとっくに終わっているというのに「君のママはどんなの?」みたいな似顔絵コーナーが設置してあった。それにしても子供は(ママに限らず)なぜ人の目をあんなに黒く塗りつぶすのだろうか?帰り道に考えていると一つの考えがよぎった。子供はたんに「目を見てママと話す」のだ。