ビリー・クルーヴァーの『ピカソと過ごしたある日の午後』





ある日、つまり1916年8月12日、若き日のジャン・コクトーは母親のコダックカメラ(オートグラフィック・コダック・ジュニア)を携えて、当時モンパルナスを根城にしていたピカソや彼の友人たちを撮った。しかし、その後29枚のスナップ写真はバラバラに散逸してしまった。そこでスナップを再び正しい順番(正しい時系列、空間系列)に再配置するためにはどうすればいいのか?このシンプルな問いと解答こそが、この書物そのものである。






天候、日照条件、建造物の方位や屋根の角度、フィルムの特性、カメラポジション、被写体のディティールなどのちょっとした「徴」をもとに写真が「いつ、どこで撮られたか」を解析してゆくビリー・クルーヴァー、その手つきと頭脳がもたらすエレガントな証明は「写真」という自明の産物をひときわ面白いアングルで「見直す」ことを要請してやまないだろう。それは「探偵ごっこ」や「警察ごっこ」レベルにあるのかもしれないが、「ごっこ」、つまり遊戯性があるからこそ、こういった刺激的な考証実験が気軽にできるのだとも言える。






しかし、その気軽さはたんに写真の時系列を再配置するためにだけあるのではない。例えば、「サティの外套はいつもしみひとつない」ことや、「ピカソはステッキを上下逆さまに持つ癖がある」、こういった些細なエピソードが複数の写真を通して初めて視覚的に浮き彫りにされてゆく、そういった意味でもクルーヴァーによる(まるで刑事のような)コメンタリーを読むだけでも、十分楽しめるものとなっている。






しかし、現今において、なぜこんなにも「写真」が多くあるのだろうか。デジタルカメラや携帯のカメラ機能の飛躍的発展によって、「写真」もまた大量生産ー大量消費の大きなサイクルの中で機能しているにはちがいない。だが動画も含めたそれ(画像)の蔓延となると、クルーヴァーのような明晰な視点や解析方法を持つことがますます難しく、ゆえに貴重な何かに思えるのだ。






例えば、最近の「捏造報道事件」。20世紀においては、映像を撮りため、編集し、国家や民族、つまり共同体の幻想を強化することに躍起になってきたが、21世紀においても、事は終わっていないし、それは矮小化しているにせよ、複雑化している。某テレビ局の某番組は、最近の事件を契機に、レタスの催眠効果を正当化するために英語を話す外人教授のコメントをカットして、別の日本語内容(まさに催眠効果を正当化するような内容)をアフレコ(アフターレコーディングー事後録音)していたことが発覚したのだから、高視聴率をマークしている大衆煽動性の高いテレビ番組なぞは、とりあえずは懐疑するに越したことはないだろう。こういった番組にスポンサードする企業も企業だが、いずれにしても「健康幻想を過剰に抱え込んでいる不健康な人たち」が実のところ、健康の捏造を支えているのだ、と言えば言い過ぎだろうか。





最後に、『ピカソと過ごしたある日の午後』(1997/邦訳出版1999)の著者であるビリー・クルーヴァーを(氏もかかわっているだろうウェッブサイトで、おそらく日本で初めて)本格的に紹介していた岡崎乾二郎が「映画を作るという武器を誰もが持つべきだ」と言っていたが、これは何重もの意味においてそうである。ひとつは、テレビ番組(のソフト)を作るという形式(技術的な手続き)と映画(というソフト)を作るそれが同一であり、ほぼ同一のプロセス(流れ)において作られるという意味においてである。それは技術を身体化(血肉化)した方が、(まさにクルーヴァーがやってのけたように)「映像を真に見る」ことに、あるいは「虚構の作り方(捏造の仕方)を真にドキュメントする」ことに役立つからである。



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