『刺青』





つい先日、渋谷ユーロスペースのレイトショーで『刺青』(しせい)を見た。原作(谷崎潤一郎)と照らし合わせてドーノコーノ言うのはさておき、少し感想を述べておきたい。






流行の顔がある。それはファッション誌やテレビメディアが先導して「これこれこういうふうな顔が今、流行なんです」とでもいいたげな<顔ーイメージ(広告)>に飛びついているような<顔ー実体>である。まず、主人公の女がまったく「流行らない顔」である。それは必ずしもブスというわけではなく、さまざまな「産業用の顔」がある中で「だけど、(例えば)広末涼子だけは違う」という「差異」を計測できるような顔である。






近年の刺青映画『赤目四十八瀧心中未遂』でもそうだったが、だいたい刺青(入れ墨)を彫るべき女体は「肌理の細かい色白肌でそこそこタッパがあって、長髪」というお約束みたいなものがあるのだろうが、主人公の川島令美という人はそこまで洗練されていないし、むしろ『二十世紀ノスタルジア』を撮ったあたりの原将人監督が広末涼子を「菩薩」と称したような記号性に近い(と言えば褒め過ぎか)。一方男優の方は、オダギリジョー妻夫木聡などに代表されるような、かなり「流行の顔」であるように思えたのだが、まずこの男女の顔のコントラストそれ自体がいい意味でちぐはぐしていて、「刺青映画=美しい身体を見せる映画」というコードを逸脱させている。





撮影日数がかなりタイトだったのだろうか、あるいは都心部において、撮影許可なしでゲリラ撮影を敢行せざるを得なかったという理由もあったのだろうか、フィックスショットがただ一カ所しかない、つまりほとんどハンディでぐらぐらの画面なのだが、サバサバしたリズミカルなモンタージュもあいまって、始終「殺伐とした感じ」が画面からひしひしと伝わってくる。





物語のアルファとオメガは次のようなものだ。たまたま車内に一匹のアゲハが舞い込んできて、それを携帯のカメラで撮る。その写真を添付して出会い系サイトのサクラに送信する。これがアルファ。潰れることが決定した孤児院を再開させるための資金繰りに際して、二人は女体に彫られた刺青を使って、悪事を重ねてゆく。そして孤児院のポストにそっと大金を投函する。これがオメガ。





このアルファからオメガに至るまで、映画は駆け抜けるようなスピードで展開してゆく。男の熱のこもった演技、それを冷ややかに受け止める女を主軸に、画面はグルになった二人が、ラブホテルでの強奪をクールに繰り返すシーンをたんたんと映す。そしてストーリーラインとイマジナリーラインのタガを狂わせることなく、上記したような「善悪の彼岸」(ニーチェ)というテーマを炙りだしてゆく。





以前、脚本家の井土紀州と話していた時、彼は「人間は<性と経済>を動かしているのではない、事態はその逆であって人間は<性と経済>に動かされているのだ」ということを主張していたのだが、それはこの世、とりわけ19世紀以降の資本主義社会の「仕掛け」としてある。その「仕掛け」を終世、徹底的に分析したのがマルクスフロイトなのだとしたら、この映画は「映画」以前に両人に敬意を払っていると言えるだろう。ちなみに『刺青』の監督は瀬々敬久、脚本は井土紀州であり、以前京都のポルノ映画館で見た『赤い情事』に比べて遥かにインパクトがあった。