『砂の女』





たまたま『砂の女』(1964)をヴィデオで見た。面白かったので少し感想を述べておきたい。『砂の女』は、多くの論者が言うようにフランツ・カフカの小説、(個人的には『流刑地にて』)を連想させる。それは「条理空間」を「自然空間」と捉える一方で「不条理空間」を「非自然空間」と捉え、人間の心理やその心理を構成する社会的空間を極めて「作為的かつ人工的に」創出するという意味においてである。






監督の勅使河原宏は、時代背景や登場人物の私的な歴史を括弧に入れて、映画時間において生起する「出来事」を「想像的装置としての映画空間」において準備するのだ。その人工性は、例えば時代劇などに見られる「コスチュームプレイ」を創意するにあたって、さまざまな文献を紐解いて「本当らしさ」に近づけるという野暮ったいリアリズム(本当はリアリズムでさえない)とは相反するものである。








そして原作者であり、この映画の脚本をも書いている安部公房は、幼少期の頃、幾何学の問題、つまり<図形=表象>に意外なところに補助線を引いて解答を得るという、そういった問いの形式を好んでいたそうだが、「想像的装置」とはこの幾何学における「補助線」にあたると言ってもいいだろう。








まず砂漠にひとつの奥深い陥没地帯を作る。そこに掘立小屋を作って、男を女を閉じ込める。するとどうなるか。監督の勅使河原宏は性的交渉や性的行為のシーンはすっとばして、ある日突然、女が子を身籠ってしまうシーンをこの映画の結節点としてシンプルに描く。70年代初頭、妊娠や堕胎を取り上げた(政治的活動のための唯物論オルグとでも言いたげなテーマだ)映画が若松孝二足立正生の映画をはじめ、数多くあったようだが、勅使河原宏の関心はそんなところにはない。むしろ彼の関心は男性的なファンタスムのひとつであろう「科学中心主義」にある。それはハンミョウという珍種の虫の採集をしに砂漠にやってきた男(岡田英次)が、村人の罠にはまって女が孤独に棲み続ける掘立小屋という「密室」に閉じ込められたあげく、ひとりの女(岸田今日子)とともに極限状態を生きる(さすがに彼女は8時間はある太平洋戦争映画『人間の条件』(小林正樹監督・1959)に出演していただけある)という設定において、生起する事象の「科学性」、最終的には<男ー女>の性的相対性から拡張されるような「文学」ではなく、「砂」によって自己同一性を得る女と「水」によって隔世的な生き甲斐を見つける男、その緻密なプロセスが、たんたんと描かれてゆくのである。







たしかに、『砂の女』は、男の視点で撮った男の映画だ、と言えば首肯してしまうのだが、しかし、そういった社会学的関心から映画を見ることにおいては、そこに、いかにも映画が「教材」に堕しているという風潮を読み取ってしまうのも確かである。そういった「映画=教育装置」のイデオローグから離れて自由な目で見てみると、『砂の女』は「性」と「反ー性」が同時に内在している希有な映画と言えなくもないのだ。そしてSFと古典が同居している荒唐無稽な映画だとも言えるのではないか。






最後に、私にとって密室劇映画の最高峰と言えば、ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』(1962)であったが、それと同等のシナリオの技巧的な上手さを『砂の女』に見て取ったのは確かである。