『みやこ☆音楽』(ノイズ・マッカートニー BNCL-26)は、くるりの岸田繁がプロデュースした「京都音楽百景」(帯文による)である。ポーランドの女性革命家(1871〜1919)を、そのバンド名の由来にもつローザ・ルクセンブルグの『橋の下』からはじまってaudio safariの『after you drew the line』で終わる14曲入りの贅沢なオムニバスアルバムだ。そこで、一通り聴き終えた今、メモをとっておきたい。
多くの京都人が口を揃えて言うように、その地は河原町周辺に盛り場が集中し、あたりをほとんど自転車で回れる一カ所集中的な地理も手伝ってか、京都は「音楽」のみならず、多種多様な文化が横に(かつ短絡的に)連結しやすい場所である。加えて、ヨーロピアン、アフリカン、アメリカン、チャイニーズ、コリアンなどのストレンジャーたち(とはいえ、大学教授などインテリ層?もかなり多い)が酒場を賑わしていて、(ほとんどフィクションである)「純日本」としてシンボライズされがちな「京都」を、美術、音楽、映画、文学、哲学、建築などを通じて、日夜それらを異種交配させながら再構築しているのも興味深い側面である。そんな「京都文化」の中でもひときわ活性化を促しているのが、音楽シーンだろう。古典の宇津保物語に記述されているような宮廷(現在の京都御苑)御用達の音楽家(当時は音楽家という概念すらなかっただろうが)から、四条の鴨川べりで歌舞伎(の原型)を舞ったといわれる「出雲の阿国」(その銅像が今も四条大橋の脇にある)、ベトナム戦争時、60年代後半から70年代初頭にかけて岡崎にある円山野外音楽堂で反戦フォークによるプロテストが行わたりもした音楽都市、京都。そんな音楽都市の一断面の現在をスマートに伝えているのが『みやこ☆音楽』であろう。
京都と音楽、と言えばまずは「京大西部講堂」になるのだろうか、つまり村八分などを筆頭とする「日本ロックの伝統」という「象徴」が機能しがち(余談だが、西部講堂の屋根にペイントされている「☆」マークは1970年代初頭、パレスチナ(テルアビブ空港乱射)に行った連合赤軍の岡本公三他2名のシンボルである)なのだが、さすがに「ロック一色」ではなんの現代性もないだろうし、一通り聴いてみると、良質なロックの寄せ集めでもないし、むろんポップスの寄せ集めでもないことがすぐさま理解されるだろう。
むしろ、思うにプロデューサーが京都という場所を通じて追求したかったのは、音がもたらす「イメージ的なわかりやすさ」でも、その理解がもたらす「ジャンルの棲み分け」でもなく、音の特質そのものがもたらす音楽の多様性、その強さではないだろうか?
(つまり、サンプリングマシーンなどによる打ち込みと生楽器による演奏の「共存」や「二元論的収束」といった音の二次的な解釈ではなく、そういったイデオロギーに傾きがちな位相から別の位相に変換した上で音楽を探求する試みがあってしかるべきだという意志が感じられる。)
例えば、luckey lipsの『わかってくれない』。この曲においては(まわりくどい言い方になるが)身体を通じて発する音とその音を機械的に処理した上で発される音の差異自体が不明瞭になった音を聴くということがいかに音の経験として貴重なものであるかが感得されるのだ。つまり、楽曲を貫通して繰り返されるギターリフが機械によって反復されているのか、身体的な技術によるものなのか、ほとんど判別がつかない、(ハウスミュージック初期においてリズムトラックのサンプリングのネタに多用されていたジェームスブラウンバンドのドラマー、そのあまりにも正確すぎたドラミングを想起させる)という意味で、「音楽」がたんに「音楽」であることをやめて、<聴覚=聴覚(から)の差異>としてダイレクトに届く不思議な曲だと言える。
音と土地は切っても切り離せないだろう、そもそもフラットな平野ではなく、四方を山に囲まれ物理的に音を乱反射させる盆地という特性もあって、京都人の聴覚は上方に逃げ去る音を繰り返し内面化してきたのかもしれない、と言えば憶測に過ぎるだろうか(そして「壁に耳あり、障子に目あり」を意識することとは、ある種八方塞がり的な<狭さ=盆地性>が要求する生活の方便だと言える)。ただ、誤解してはならないのは、『みやこ☆音楽』は「京都」を強調しもするが、しかし、ことさら東京に対抗するものでもなく、あえてニュートラルな視点にたった上で、「土地と音」の関係項を倒錯的に追求している、このことだ。それは<産業用の「音楽」にされた音楽>をもう一度真にリセットし直す作業をすすめる眼差しを聴く者に与えるだろう。そう、音楽を聴きこむことによってのみ、透徹した「差異の意識」を意識することしかできない次元があるのだ、『みやこ☆音楽』はこのことを暗黙に示唆してくれる。
さて、ここまでメモってみたが、やはり音楽を語るのは難しいし、語るものではなく、なにより聴くものだということが分かる。だが、聴いた音をあえて言語化するという不可能性に挑む行為からもっとも高度な聞き方が生まれ、さらには新たな音楽が生まれるのではないか。
それにしても、ポール・マッカートニーが英国の美大の学長に就任していると聞く今、ノイズ・マッカートニーは「音楽」の権威をいかにして解体してゆくのだろうか。