相撲






平成十九年大相撲初場所四日目を見に両国国技館へ行ってきたのだが、生来、普段スポーツ観戦をまったくしないだけあって、新鮮な体験だった。小学生の頃、母親が相撲好きでなぜか家で流れるテレビを見るともなく見ていて「輪島」や「千代の富士」などの名前をいつのまにか覚えたり、基本的な技を覚えていたのである種の(オイディプス的な?)親和性があった言えばあったのだろう、まったく苦にはならなかったし、むしろたまに足を運んでいいのではないかと思うほどだった。






観戦中、ずっとアルコールに酔っていたので始終血眼になって見たというわけではない、というよりも相撲観戦とは力士のぶよぶよした身体と同様に「弛緩した」何かをまずは享楽するためにその空間が用意されていて、スポーツ観戦特有の男くさい「応援」や「熱狂」とは無縁の国技であり、誤解を恐れずに言えば「力のぶつけあい」というよりも社会的な要請のもとで、パフォーマティヴに、かつ過剰に「太らせた」身体を中心軸にした「優雅な運動」を奏でる空間をゆるやかに楽しむべき何かであろう(それゆえに突発的に始まる取り組みを注視できるのだ)。







プロレスやボクシングが「水平的なスポーツ」だとすると相撲は極めて「垂直的なスポーツ」である。土俵の上に屋根があるという空間組織の仕方や「東西向正」という方位の概念(ボクシングにおける赤や青は「色」でプレイヤーの主体的戦闘意欲が抽象化されるような媒介概念であるにしても、「東西」となると実在の物理のリアリティーを意識せざるを得ない)に包囲されつつプレイするということも含めて、力士のそれ自体の重みや取り組み寸前の意識は必ずや垂直的に生成変化してしまうのだろう。(それにしても力士の踝がなんと小さく見えることか!)







例えばごく一般的な知識として、シコを踏むという形式的動作は地霊を鎮めるというプラクティカルな理念があるのだが、シコ踏みは、地霊に再び刺激を与えかねないので土俵を中心にした空間は畏怖すべき場所に一気に生成変化してしまう(霊を呼び起こしてしまう)。そういう理由で実際土俵の下には「御供え物」がたくさん入っているいう意味でも垂直的なメディウムが貫いていると言える。そして、そもそも土俵の円形がボクシングやプロレスの四角いリングとは違って、水平的な逃げ場を構成しにくい。







(蛇足だが、何年か前に逝去したロラン・バルトというフランスのエッセイストないし思想家が「レッスルする精神」というテクストを書いているのだが、「把瑠都」(バルト)という欧州生まれの21歳の力士が休場していたのが、やや気になった。)
 








それにしても「古事記」にその起源と見なされるような文章が記載されているというのだから、相撲に歴史的な重みを感じる他ない。モンゴル、欧州、ハワイ生まれの力士を受入れる状況になり、ますますグローバル化される「国技」となった今、相撲観戦ががたんなる有閑老人の溜まり場に留まる理由など何一つないのではないか。相撲にはたしかに今なおもって「無駄の美学」、それも過剰な美学がある。そこが面白い。