少年の場



■今は枚方市にいるのだろう劇作家?の可能くんから電話。また東京に戻ってくるらしい。彼とはとある映画の企画をずいぶん前から立てていて、彼が主演の60分くらいの科学的メタ・ドキュメンタリーをG・Wあたりに作ろうという話をする。可能は「オレは青山真治から出てくれって言われたこともあるんだぜー」と自慢気に言う。しかし、珍しく中上健次の話がでてこなかったな。どうしたのか?




■昼過ぎから中断していた短編のロケーション・ハンティング。駅のシーン。京葉線。東京駅を発車して、20分くらいのギュイーンとカーヴして海湾にのぞむところがよい。また、京王線北野駅の八王子行きホームの西はしっこから見る眺めがよい。千葉みなと駅から出ているやたらと人気ないタウンライナーに乗りながら先日25才の若者から送られてきたMDを聴きはじめる。歌詞が日本語というのは解かるがそのフレーズがほとんど聞き取れない作品集。しかし、19曲目の歌詞の中に「僕は恋に落ちた、君の名前を呼ぶだけ、蒸発したのは灰色のコカコーラ」と聞こえた。灰色のコカ・コーラ中上健次へのアリュージョンなのだろうか。




岡崎乾二郎の『バタイユ安吾』は異色のテクストだ。その最後部にある「少年の場」という言葉がずっと頭に残っていて、25歳の若者の口から漏れた「灰色のコカコーラ」という旋律を付加された言葉が耳に憑きはじめ、ずるずると観念的になっていき「少年の場とは何だったか」という問いをひきずりながら家路についた。・・・少年はまずは世界を疑う。少年は世界を疑いながらせっせと組み替える。少年は、たとえそれがどんな現実であれ、現実を愛する、そんなことを思いつつ。そして、氏はジョルジュ・バタイユ『ドキュマン』所収の「工場の煙突」を引用しつつ、身体の多数さ、そのそれぞれ勝手に活動するロゴスを平気で許容する力が「健康」さであると規定したあと、次のように言う。



建築家、文学者がなお物をつくり、語るとすれば、こうした瑣末(歩道の泥の模様や人間の顔つきとかのいびつな形)に身を沈め、事物への感受性を未だ失わぬ(自身が事物であることに留まった)少年の場においてしかない。そこで身体は、煙突が煙突であること、ドライアイス工場がドライアイス工場であることを、自ら構成するロゴスとしてはじめて受け入れる。これこそタウトがついに理解しえなかった、モダニズムに突き通されたロゴス、その身体的徹底である。