モテ




レイトショーの『さすらい』を見に行けなかった土曜の夜と日曜の朝。4、5日前、もしもし電話で誘われてJR渋谷線路脇のDESEOなるクラブでサイケアウツG(GはGHOSTのGだそう)のライヴ。久々の面々や初めての面々で、やや新鮮。サイケアウツ自体はあまり変わりなし。すばらしい。前半ドラムンベースでたんに踊る。楽しい。オオハシアキラに自称哲学者のM氏を紹介され、あれこれ語る。彼はアニメ→サブカル→カルチュラルスタディーズの流れが哲学の入り口だそう。でも、専門はバルト。バルトも参加している『スポーツと人間』という映画もビデオで見たそうだが、つまらなかったと言う。そしてジャック・ラカンの著作(たしか『テレヴィジオン』)の翻訳者でもある藤田博史ゴールデン街精神分析バーを開いているとの話を聞く。・・・自称哲学者M氏は「モテたい」と言う。さて、「モテるためにはどうするか」を話しあう。その前に「なぜモテなければならないのか」を話し合う。「彼女が欲しい」と「モテたい」はそもそもまったく違う欲望だということも話しあう。「彼女がいることは客観的な事実になりうるが、自分がモテていることは自分で確認できない(またはしにくい)ので、主観的想像力によってモテるしかない、つまりモテというのはそもそも実体を欠いているのだから、仮にモテているとしても、仮象を超えることはない。つまるところ一切のモテは仮そめであり、絶望的なモテの空虚に対峙することによってのみモテはモテの自己を得るしかない。」という話になる。「でも、ラカンは激モテ野郎だったでしょう?精神分析系の人はなぜモテるのかってのが、わりと昔から不思議なんですよ。精神分析医のモテも空虚なものなんでしょうか?」ああ、なるほど。通俗的には「あなたと話していたら、私のすべてが見透かされそうで、なんだか怖くなってくるわ。」っていう女の決めゼリフだね。でも内心はお互い「バレバレのウソついてんじゃねーよ!」っていう含み笑い的アイロニー。つまりは防衛手段としての言語−交換価値。通俗的精神分析的関係っぽいモテ野郎くん&モテレディーさんの面白くないところはそこかな。でもラカンの場合は臨床的なケアを先取りした形でモテをプログラムしてるんだと思うよ。でも思いっきり主観で言うと、今は男も女も鹿系の人が多いから鹿の交尾でも研究すればいいんじゃない?モテたいんならラカンフロイトも真に受けちゃダメ。でも原始的なレベルでは男でも女でも踊りがうまいのがモテると思う。ほら、あの子をごらん。まるで、蜂のダンスのようじゃないか?