「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪ その7

映画とモダニズムについてのソフトな会話♪(その7)









●「さあ、あれから1週間たったわよ。読んだ?『モダニズムのハード・コア』(太田出版 1995)。」



▼「うん。読んだよ。でも、難しいな、ソフトな会話にしてはハードすぎる。しかし映画の文脈で使われているモダニズムと美術の文脈で使われているそれとの大きな違いを感じたよ。まあ、グリーンバーグの「モダニズムの絵画」(1961)の冒頭を読む限り、モダニズムは美術の分野だけに限った問題機制じゃなくて、映画にも何にでも妥当な議論なんだよね。」



●「そうね。冒頭ってどんなのだっけ?」


▼「モダニズムは単に芸術と文学だけでなくそれ以上のものを含んでいる。今のところそれは、我々の文化において本当に活きているもののほとんど全てを含んでいるのだ。それはまた、偶然に起きた歴史上、きわめて目新しいものである。西洋文明は、自分自身の諸々の基盤をかえりみて問いなおした最初のものではないが、そうすることをもっとも突き詰めていった文明である。私は、モダニズムを哲学者カントによって始められたこの自己−批判的傾向の強化、いや殆ど激化というべきものと同一視している。彼が批判の方法それ自体を批判した最初の人物だったがゆえに、私はカントを最初の真のモダニストだと考えているのである。(p.44)」

●「そうだったわね。ちょっと話がズレちゃうけど、重要なのは、日本文化が西洋文化の影響のもとにおかれた時点で日本が日本を再発見しなきゃならんって構造が発動しちゃったこと。自己紹介なんてしたくないのに、他人が目の前にあらわれてはじめて自己紹介せざるをえない状況に無理矢理おかれることの近代性よね。西洋人のある人が「ところで、おたくの国の北斎っていいですよね」って言ってきたら「北斎ってのは、これこれこうで・・・」って言えなきゃならない。バナキュラーな場面に置き換えてみても、フォーマルな場になればなるほどなぜかそうなっている。名刺を渡したりして自己同一性を互いに保証しあう。西洋は日本のような単一民族国家の幻想に支えられた島国じゃないから他者に対しての緊張感があるのよね、きっと。で、緊張感を支えているのがロゴスになる。ネクタイというロゴスであり、スーツというロゴス。そのロゴスが明治時代にダッと日本に伝播した。だけど、日本はそのロゴスの内面化というよりもそれを骨抜きにしているのが文化だって思われている節があって、内面化=骨抜きを上から支えているのがブランド=ネームヴァリュー=権威主義だったりする。で、それが未だに幅を効かしている。」



▼「それは分かりやすい喩えだね。ブランドとかは関係なく、相手がいるからネクタイしめてお辞儀をするんだし、そこで自分が自分を代表せざるを得なくなる。相手にペコッとお辞儀するのは純粋な敬意からでもなんでもなくて、本来的には「あなたはわたしにとっての他者であって下さいね。」というメッセージも含まれている。それを要請すればするほど、他者性が自分にフィードバックしてくるし、緊張感が生まれる。で、何の話だっけ。」



●「ふふ。グリーンバーグに従えば、ともかくドメスティックにもグローバリスティックにも映画のモダニズムなる表象を批判的に検討してゆくためには、参照項目がいるってことよね。グリーンバーグだったら、まずモダニズムってのはこうだ!っていうほとんど無根拠かつドグマティックな抽象的な規定があってまずは「モダニスト=カント」なんだって言い切った。その上でマネやセザンヌを評価している。で、それがいい意味で60年代アメリカの抽象表現主義に影響を与えたわけじゃない。映画の場合だったら、モダニズムって多分こういうことでしょ。そうだよね。そうだよ。うん。みたいな非常にゆる〜い感じでなんとなく共有されているって感じ。まさに「感じ」としてのモダニズムに近いものがある。で、いつまでたってもモダニズムが決定的に需要されることもないし、波及することもない。」



▼「そうなんだ。その「感じ」がうっとうしいんだよな。」



●「「感じ」をどうやって切断するかよね。」



▼「そこが難しい。「感じ」だから容易に切断できない。暖簾に腕押しって感じにもなりかねない。下手にやると「批判する感じ」が「モダニズムの感じ」に吸収されてしまうっていうかね。」



●「そこは批判の方法を批判しつつ、作品をバンバン提示していかなきゃならんでしょうに。」



▼「まさにそうなんだ。超越論的映画術で乗り越えなきゃならない。で、ちょっと気になるのは、グリーンバーグの次のセンテンス。・・・

思うにモダニズムの本質は、ある規範そのものを批判するために――それを破壊するためにではなく、その権能の及ぶ領域内で、より一層それを強固に確立するために――その規範に独自の方法を用いることにある。カントは論理の限界を立証するために論理を用い、旧来の論理の支配権から多くを撤回したのだが、しかるに論理は、残されたものをかえって一層安泰に所有する状態に置かれたのである。(p.44)」

●「ちょっと話がすっとんじゃうけど、ここまで徹底的にやった人って、ゴダールくらいなのかしら?」



▼「ゴダールは映画の限界を立証するために映画を用い・・・ってことだよね。後半のカントをゴダールに入れ替えて、論理っていう単語を映画に入れ替えて読んでみるとゴダールモダニストってことになる。しかし、どのあたりのゴダール映画をモダニズム映画の限界点とみるかは、まだそんなに議論されていない・・・でも、今なお批評的なフィルムを撮っていることには変わりないよね。」



●「そう。ゴダールはなんだかんだいって批評家から出発したってのがポイントで、初期のものを読んでも、たいして理論的なことは言ってないんだけど、やたらと贅沢な引用だらけ・・・後年になって「わたしたちはニコラス・レイのちっぽけな映画を擁護するためにわざわざランボーを引用したりしました。」・・・ってどこかで言ってたけど、まさにそう。あとゴダールは最初から数学的な比喩が多いわね。あとは、トリュフォーの論文『フランス映画のある種の傾向』(1951/ユリイカ『総特集 ヌーヴェル・バーグ』所収)でルネ・クレマンの映画なんかを垂直的なヨーロッパ演劇史から踏襲される古典主義、保守派の様式と規定しつつ一蹴して、一方で、アメリカっていう仮想敵を設定しつつも同時に敵と見方として二重化して捉え、ヌーヴェル・バーグの映画が容易にヨーロッパ映画の伝統のサーキットに回収できないような仕組みをつくっちゃった。ヌーヴェル・バーグの面白さはその<アメリカ=二重体>の設定にある。・・・これはおもろい!」


▼「げっ、なんで関西弁?」



●「いいじゃん。で、グリーンバーグの影響下にあったアーティストがアメリカっていうフレームを代表することもなく、固有名で勝負できたっていうのは現象としては似ていると言えば似ているかもね。」



▼「じゃあ「ヌーヴェル・バーグ/グリーンバーグ」っていうセットでモダニズムを考えてみるのも冗談だけど冗談なりに、おもしろいかもね。」



●「フフ・・・ハンバーグたべたくなっているんじゃない?」



▼「君が食べたいんだろ?ヌーヴェル・チーズ・バーガーとか?・・ファミレスでも行くか?」



●「ちがう。グリーン・フランシス・ベーコン・レタス・バーガー。」