■映画探究ノート 1 




■ 映画探究ノート    鏡・トーキー・クローズアップ






鏡に映った自分を見ることが好きな人は、おそらくたくさんいるだろう。そして、鏡を見るのが嫌いな人も、おそらくたくさんいるだろう。それはギリシア神話におけるナルシスのエピソードのように、自己愛的なメディウムであると同時に、自己破滅的な装置でもある。ナルシスは水鏡にうつった自分を見すぎ、愛しすぎたあまり、水仙に化けてしまったのだから。




ここで、鏡というわれわれに親しみをもたらすと同時に、苦痛をおぼえさせる存在様式が、トーキー映像におけるクローズアップの理解に役立った、という仮説を少し検証してみたい。幼少期において、映画やテレビなどの表象形式を受入れてゆく過程以前に(あるいは過程とともに)、鏡の存在があり、鏡を知覚していたという経験的な事実があったということは明白である。




モーリス・メルロ=ポンティは人間の知覚現象から自らの思想を展開したことで知られている。狭義的にはフッサールから連綿と受け継がれていた「現象学」(phenomenology)と呼ばれている学問に寄与した人物であるが、ここで、メルロの学問に詳細に立ち入ることはできない。だが、メルロは、その著書の中で映画や絵画(特にセザンヌ)を考察するにあたってのいくつかのヒントを提供してくれているので、そこだけを取り上げてみたい。




ここで、メルロの意見を借りてコメントしておきたいことは、まず「トーキー映画の知覚」と「鏡の知覚」が発生論的に連続的なものであり、次に、「鏡の知覚」こそが、クローズ・アップという映画(写真)撮影技法の発生論的系譜の原初的形態となっていることである。




1950年、パリのソルボンヌ大学。哲学者として知られていたメルロ・ポンティは、2年にわたって「幼児における他人知覚の関係」というタイトルで講演を行った。その中で「幼児における鏡と知覚」に関しての印象深い例が上げられている。




幼児が鏡の中の父親の像に笑いかけているとします。そのとき、父親が話しかけてみますと、幼児は驚き、父親のほうに振り返ります。したがって、そのとき、幼児は何物かを「学ぶ」らしいのです。では、本当のところ何を学んだのでしょうか。彼が驚くということは、父親が話しかける以前、彼には像と本物との関係についての的確な意識がなかったということです。彼は、声が、鏡のなかに見えるとは違う方向から来ることに、驚いたのです。彼がその現象に注意を払っているということは、事実、彼が何ものかを理解しつつあるということ、したがってそれは単なる習慣的馴れの問題なのであって、鏡の像が「了解不能」になるのは、それが、最初父親によって引き起こされた反応の条件刺激となるからだ、−−−と。(幼児の対人関係  メルロ・ポンティ『メルロ・ポンティ・コレクション 3』p.61)



単純明快な事象が語られているに過ぎないが、それはわれわれがすでに大人なのであり、幼少期にはじめて鏡を見たことは、もう覚えていないからだろう。われわれ成人者の「過去に対する遠近法」のまったく届かないところに、この現象がある(ゆえに、わたしはこの事象記述に、倒錯的に官能を覚えてしまう)。話を円滑にするために、上記引用内容を下に図化しておこう。









ここで、ワロンの言説を借りてみよう。一般化されている鏡像の受容過程についてメモしておこう。ワロンによると幼児と鏡像との関わりには段階があり、だいたい次の三段階において変化があるという。




鏡像を見つめる。(生後4ヶ月後)
鏡像に興味を持つ。(生後5ヶ月後)
行動があらわれる。(生後6ヶ月後)


もうひとり、あまりにも有名な例として、鏡という装置を使って思考を展開した者に精神分析理論家のジャック・ラカンがいる。ラカン鏡像段階理論における鏡のステイタスとは、端的にいえば「バラバラな自己をひとつにまとめあげる装置」であった。ラカンにおいては、リアルな「自己以前」と鏡の中のイマジネールな「自己」を1対1対応させることのできる装置として鏡の存在様式はあったのだ。その時期は前述のワロンの鏡像段階によると生後4ヶ月後にあたると思われる。




鏡を見つめること、それは時間(現実)を瞬間(写真的瞬間)に封じ込める入り口であり、ラカン理論では「鏡像=映像」という固定的な瞬間にアクセントがおかれている。だが、メルロ=ポンティがすぐれているのは、このラカン理論の次元に加えて「父親の視線と声」つまり、「他者がかかわる時間」を導入していることにある。その2つのモメント「視線と声」はいわば幼児にとっての「他者=時間」である。「他者=時間」を導入した図式はおおよそ以下のようになる。





時間(t)
|   A−B  −−発声    ●1  父の声
|   A−B´ −−関連づけ  ●2  父の像と父の声の不一致感
↓   A−B  −−振り返る  ●3  父の像と父の声の一致
                    A=A′への再帰

ここで、決定的なのは●2である。幼児にとって父の像は親和的なものであり、連続的な事象であった。だが、鏡面に現れた父の像が発声したとたんに、リアルな父の像がリアルでなくなるのである。なぜか。それは鏡の存在様式には必ずフレームが伴っているからである。われわれはフレームの内部に複数の要素を導入することで、それらを一つにまとめあげることができると自明視しがちである。そして「それらは繋がった。」と錯覚する。「バラバラなものが一つになる」作用自体はありふれたものである(小麦粉と卵と牛乳がホットケーキに化けるように)が、しかし、時間(t)を導入したとたん、「結果的に一つになる」ということは仮象に過ぎない、ということになる。(ホットケーキが身体内で個別の栄養に化けるように)。フレームは単一的、固定的、静態的な空間を要請するが、しかし、それゆえに、フレームは、事物が再び「動態化/時間化」することをも要請するのである。父親と父親の像とのズレは日常的なものである。にもかかわらず「鏡=フレーム」という物理的事実が発生したとたんに事態が複雑になるのだ。フレームがもたらす反フレーム的動き、ここに時間の極意がある。





●3の過程、つまり幼児が「父の像がまさしく父のものであること」を確認するために振り返る(メルロの言う行動化)のは、まさしく●2で発声したズレを修正するためであり、そうして●1における「父の声」がようやく「父のもの」に回付されると言える。●3において重要なのは、それが「事後的にしか起こりえない」ことであり、ここに単線的な時間ではなく、循環的な時間が確認される。なぜなら●3から再帰的に<A=A′>が確定するからである。しかし循環はすでに差異化をもたらす。正確には完全な循環ではなく、亀裂、間隙、余白をともなった回帰であり、そこから生まれる時間はいつも決定不可能である。





さて、ここで映画制作における「クローズアップ」という不可欠なファクターを想起しておこう。そして「クローズアップされた顔が話す」ことが、まさに「その人が話している」という映画的仮象を確定させるもっとも強力であり、もっとも恣意的な方法であることにも注意しておこう。





多くの映画制作者が採用しているように、「その人が話している」ということを示すには、まず「唇の動きと発声」が一致していなければならい。やや専門的に言うと、「リップシンクロした音声」であるが、この「もっとも人称定位的な知覚作用」を促すのが、「クローズアップ」なのである。トーキー映画と鏡(絵画や写真とは位相を異にした鏡)の存在論的な様式において共通するのは、フレーム作用がもたらす「クローズアップ−声−時間」の定位であり、アイデンティファイ(自己同一化)の強制力の遠因(原初)をここに求めることができる。 





私は、絵画と写真の考察から映画の考察へと向かうことは正当的なことだと考えている。また、とりわけ構図、演出、撮影技法にかかわる一切の映画的事実は、絵画と写真の技法に遡行しうる。にもかかわらず、現実社会における人間の成長段階で、最初に支配的だったのは、鏡という表象装置がもたらした諸現象なのではないか、と問うことも可能である。鏡とは「われわれが最初に経験した映画的な何か」であるし、あまりにも映画のアナロジー的装置として相応しい。なぜなら、鏡には声という実際の物質的モメントが介在するからである。ゆえに、この「父の声」を主題化したメルロ・ポンティの講演録の断片的要素は私にとってたいへん示唆に富むものであった。なお、このテキストは、PCのテキストフォルダに入っている膨大な断片メモを寄せ集め、再編集したものをもとに記述した。ちぐはぐな印象を与えるが、あらかじめお断りしておきたい。