■21〜32








■21 


ショール、というのか、そういうものを色ちがいで2本買ったのだが、いまいちしっくりこない。(頭に巻き付けて電車に乗ったのだが、ああ、ヤバいヤバい何やってんだオレ状態だ 笑/笑)。ショールにはシュール(正確な仏語発音ではシュル)さが足りない。ポンチョ、にはデザインにも、そのポンチョという愛嬌あるっぽい響きにも、ちょっと憧れがある。ポンチョは何語だろうか?勘で言うとポルトガル語。ピンチョンはアメリカ人。ガーシュインは今日知ったけれどロシア系のユダヤ人だった。


■22

住んでいる最寄りの駅の躯体、構造体、デザイン、店舗展開がついに一新され、コ洒落化した、というのか、まあ、新しくなった。トイレ面積が10倍くらいになりCORELESSのローリング・トイレットペーパーが導入され、緑色のLEDライトがはめ込まれている前衛的なデザインのボタンを押すとウンコが「アッ」という間に流れる。すばらしい。


■23

ウィリアム・シュワード・バロウズの『NOVA EXPRESS』をちらほら読みなおしている。やはりこの人はすごく想像力があると思う。20代頭からずっと手元にあるが、160頁から200頁あたりにかけての描写に白熱する。そこらへんしか読まないようにはなっているけど。



■24

結局のところ、産業的世俗音楽とは「音響心理学との相性において」成り立っているXなのではないか、と最近よく思う。戦後のフロイト心理学ブームは60年代アメリカのヴィルヘルム・ライヒ(主に性科学/心理学において活躍したが、あまりにもヤバいことを言っていたので禁書になった)によって、極論まで突き進んだが、それ以降の展開としてはラカン、ラプランシュ=ポンタリスあたりで一掃されてしまった感がある。精神分析が言語的/臨床的解決だとすると、全面的に薬に依存するのはケミカルな解決である。音楽聴取は後者、つまりケミカルに解決できる一瞬の解脱に近い。


■25

ヴェンダースの新作がピナ・バウシュ絡みだということをたった今かかってきた電話で知らされた。うおっ、モンテ・ヘルマンの新作もやるの??すっげえなあ、まさに「出る・モンテ」(苦笑)。クエンティン・<レザボア>・タランティーノのプロデューサー、と言っても若いコは知らんか。オレは120歳まで生きようと本気で決意したぞ。まじで。「自我・ヴェルトフ」もヤバい(爆笑)。


■26

「人生は舞踏であって、歌ではない。」という「メタファー格言」をニーチェはよく言っていた。そして歌は<ダンス=舞踏>を抽象化する過程にあらわれる。つまり、「我歌いたい、ゆえに歌う」という因果は、<ハム(ハム、というのはハミングのハムね。)=鼻唄、口ずさみ>の生成蓄積体を一気に具現化し、フォーマライズしたいという欲望から帰結した因果にほかならない。多くの人にとって「歌いたい歌」とはすでに「誰かによって歌われた/作られた」歌ー曲である。いま、ここの心と「誰かによって作られた歌」を歌うリアルタイム性は(心密かに)同期(シンクロ)しているかもしれないが、完全に一致することはない。あたりまえだ。人はそれぞれちがう現実を生きているのだから。しかし、この<不一致>を作為的に開発ー利用することなしに「歌」は成立しない。「ハミング」(生成)と「シング・ア・ソング」(形成)の差異は明瞭である。


■27

ハムは一種の小さな跳躍である。歌はむしろ「小さな跳躍、ここまで」という外的な強制力のもとで、形成される。ハムはニーチェの好んで使った「ハンマー」の比喩(例えば「ハンマーをもって哲学せよ」という定言命令)の下部構造そのものだ。すべての打撃は打撃するポテンシャルに条件づけられ、裏付けられている。


■28


琵琶演奏のDVDを観なおす
盲の琵琶法師が2人、1人目は黒い眼鏡をかけて 2人目は眼鏡なし、次に若い人
最後に女性
語り物というジャンル
筋に調子をつける、拍をとるということ
語り 拍 語り 拍 という連続
琵琶は弦楽器 4弦 一人目の琵琶は3、4弦の間隔が幹の方でせばまっている
なぜだろう 開放の低音を多用 かまどの前で夫婦ケンカをするな かまどまわりは掃除しておけ とか 庶民的な歌 
ギターにおけるフレットではなく 凸型ブリッジ(橋架け)のような構造 3、4フレットくらいしかない
かかえるように横たえるスタイルと縦にもつスタイル
バチはしゃもじのすくいを鋭角処理した三角形 とんがっているので躯体はいたみやすい ギターのピックガードのようなものがない






■29 これはだいぶん前に書いた




▼「またまたドゥルーズの「磁器と火山」(『意味の論理学』1969 所収)を読みなおしてアルコール摂取が<喪失の法則>に関わっているっていう文章にぶつかった。そして、飲酒が<法則>に関係あるってことに驚いた。」
●「私は最近気付いたけど、飲酒は、自分を<生きた心地>にさせてくれるってこと。残念ながら<喪失>とは真逆にある。」
▼「まさか、かの有名な「死の欲動」(フロイト)ってやつかい?」
●「間接的にはそうなるのかしら。」
▼「思うに、<酔う→酔い潰れる>というコード進行において、主体は死を身体中に充填し始める。逆説的にもそれが<生の充溢>に関わっているのだとすれば、それはたんなるマゾヒズムの戦略に過ぎないんじゃないか?」
●「脳にもし身体性があるとすれば、頭痛などの脳機能失調も含めて、アルコール摂取は、脳の身体性確保に対する目論みだと言えなくもない。」
▼「君の意見は素晴らしいよ。」
●「神経伝達の失調は、身体の物質性を現前させる、身体が<鉛ー物>に生成変化することにおいて、すべての千鳥足は垂直落下(投身)、あるいは崩壊のアレゴリーとなる。」
▼「思考のくぐもりを極度に嫌うと思考の明晰さへの媒介が量的に少なくなる。」
●「その場合、アルコールによる酩酊が、思考回路の多重フィルターとなって、媒介作用を促す。」
▼「脳の身体性は常に脳の機能障害と関わりがある。」
●「それは、ロゴスによって世界が分節されていることを逆説として強力に知らしめる。」
▼「アルコールの反作用として、ハイムリッヒな(親しみある)<今、ここ>が永遠に訪れない。」
●「むしろ、その出現を常に先送りしている。」
▼「・・・・・・・・・・・。」
●「どうしたの?」
▼「考え中だ。」




■30

デ・ジャヴ、というのだろうか、たまにあるが、すぐに忘れてしまう。デ・ジャヴには内容があったはずなのに、すぐに忘れる。デ・ジャヴではなく、デジャ・ヴとすればヴは仏語でvou、英語ではviewか。既視感、「すでに見た感じ」は、かつて見たことと、今見ていることの二重写しであり、そうであるかぎり、どちらも、どちらにおいても知覚したとは言えない、確信は持てない、身体の絶対的な一個性からかえりみて。「すでに見た感じ」は、見おわって、その場を離れると、なんでもなかった、すぐに忘れてしまった、そのようなこととして記憶の隅に追いやられる。




■31

次回の上映が決まる。年明けて3月頭。近いような、遠いような。




■32



映画を数値化するのは危険なことかもしれない
映画を数字に置き換えることが
創造の仕組みをより明瞭にすることにかかわっている
と言った場合
まず想起されるのは1カットをセコンド(second)表示することが
機械的にルーティン化されていることだ
そればかりか
編集ソフトにおいても「ここからここまで」という
脳の指令伝達を機械に託することが容易にでき
なおかつ 直観に頼ることなくデジタル化した数値を確認しながら
デスクトップ上で編集できることに
なんの疑いももたないでよい
ということになっている
映画制作を覆うあいまいな観念は
個人の感情、ある感情とその共感回路に裏打ちされている
合意は確かめられ、後戻りできない地点に追いこまれる
制度から離れ、映画制作の方法を縮小してもなお
映画の質、というよりも映画の本性を自明視している視点が変化しなければ
何も変わらない
やり方はいくつかある
音楽史を手がかりに、美術史を手がかりに
あるいは手がかりなしに
方法論を複数化し、制度から離れるのでなければ
いったいぜんたい映画の制度を批判したことにはならない