「チャップリンにおけるギャグ」


9 「チャップリンにおけるギャグ」


「ギャグ」は、一般的に行動を自動的にしようとする独自の様式をもったひとつの手法である。要は、コメディア・デ・ラルトの仮面が人物を自動的にしようとするのと少しばかり似ている。「ギャグ」と「仮面」は二つの極(全く正反対の二つの用法)の間を動く。それというのは、一方でそれらは、行動と人物を不−自然な表象の要素として現れる抽象へと変容させながら、最大限の自動化に達することができるということであり、他方で、それらが必然的に、言うなれば技術的に、なすところの総合(統合)を通じて、それらは行動や人物の人間性を本質的なものにし、それらを雷に打たれ霊感を受けたごとき諸々の契機のひとつとして提示するということであり、つまり現実をその極みにおいて明示するのである(またそれ故、情景は、ほんのわずかの自然主義的なものもなく、現実主義的である)。「ギャグ」は一般的にはフィルムの中にまき散らされ、ある異なるタイプであるナレーション(語り)の技術を遮るものである。唯一無声喜劇映画だけがもっぱらギャグで形成される。それ故、それら無声喜劇映画は技術的で独自の様式をもったひとつの例外的な現象である。チャップリンの映画の中には、他の映画の中にあるすべてのものがない。諸々のチャップリンのフィルムは、それ以外の映画に比べて、ある種の否定的な現象学の中で、引き算によって定義されうる。もちろんわたしはサイレント・フィルムについて言っているのであって、チャップリンのトーキー・フィルムでは、この独創性はもはや現れない。それらトーキー・フィルムには他の映画に共通に対話があり、対話はギャグの否定である。トーキー・フィルムの中では、それ故、「ギャグ」がもはや独自の様式をもった唯一の構造を形成せず、もうひとつの別の構造、視・聴覚的な構造であるものにとって代わられる。そこでは、マイムあるいは純粋な身体的(物理的)現前と、話し言葉が併合され、それで、上に行ったような「ほんのわずかの自然主義」を回避できないのである。そしてそれ「自然主義」は「ギャグ」の純粋に現実的な総合とは両立しないのである。(1971)



ピエル・パオロ・パゾリーニ『異端経験』(Empirismo eretico, 1972)より
翻訳 あづまあつこ