「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪ その3

「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪ その3








▼「さて、ソフトな会話を再開するか。」


●「じゃあ、聞くけど、モダニズムが表象じゃなくて概念なのだとすれば、どういった概念なの?」


▼「そう、それこそ、ちゃんと説明された上で小津論が展開されていればいいんだけどな。ちょっと概念の話にうつる前に、言っておきたいんだけど・・<モダン>とか<モダニズム>っていう記号が結構宣伝道具になってた時期があるんだよ。1990年代半ばから始まったゴダール60年代リバイバルブームや渋谷系ブームとカブっていたのかな?それに追随してか、カーサ・ブルータスとかその手の雑誌が「モダン建築」をガンガン表象しはじめて、モダニズムが誤解、または中和化された時期が到来した。その擬似モダニズムブームに便乗してか、「モダン日本映画」も再発見しようということになったんだろうな。・・・例えば君は、伊藤大輔監督や衣笠貞之助監督や山中貞雄監督の映画なんて、興味ないだろ?」


●「そうね。あまり興味ないな。」


▼「だけど歴史ってのは面白いことに、歴史を歴史として保存する主人を必要としているんだ。そこで映画史を保存する立場にたつ人たちとそれに追従せざるをえない人たち、つまり配給―興行側は〔これぞ映画の<モダニズム>!〕ってなキャッチフレーズをいとも簡単に流通させちゃうんだよな。あたかもモダニズムが透明な実在物であるかのように。しかし、内実はチラシやパンフのデザインがかっこよくなっただけ。モダニズムという語に何の主張も意味も含まれてない。まあ上に上げた三人の監督作品は見られるべき映画だとは思うし、もっとちゃんと語られてしかるべきだけど、映画業界側のプレゼンテーションというかな、なぜ、今、この映画なのか?という問題提起の度合いがちょっと浅すぎるんだと思うんだよな〜。」


●「でも、それなりに・・なんていうのかな、現在にも継承されているような<それまではなかったような映画の新しさ>みたいなものがあったのじゃないかしら。美術だったら・・・ううん、今君がいったようなキャッチフレーズとしてのモダニズムを体現しているのは、幾何学的、というか図形的ポップ的表象としての、つまり、ファッション=消費財としてのクレーとかドローネー、キュビズム、およびバウハウスの周辺なんじゃないかしら。まあ一概には言えないけど。しかし、そこには新しさ、過去からの切断が確実にあった。」


▼「でも、それって、イームズの椅子がかっこいいとか柳宗理の食器はかわいいとかそんなレベルだろ?現行の消費財レベルの意識から遡行され、捏造されたモダンだ。まあ小津から離れて言うと、伊藤大輔監督なら『忠治旅日記』(1927)であり、衣笠貞之助監督だったら『狂った一頁』(1926脚本:川端康成)であり、山中貞雄監督だったら『人情紙風船』(1937)がより一般的なモダニズム映画になるんだよ。通説としては。技術的更新っていう意味でね。しかし実際それらの映画をずいぶん前に見たけど、ふうん、どこが新しかったんだろ?って感じだったんだ。『狂った一頁』だったら、フラッシュの多用、リズミカルなカットバック、並行モンタージュが斬新だと言われてる。あと、光と影の扱い方。フォトジェニー理論の応用。まあ精神病患者の世界の視覚化だから、ふつうには見せては、ふつうじゃんってことになるから。それで、ふつうの観客にとっちゃ新しすぎるってことなんだけどね、当時の人にとっちゃ。なんせ川端康成横光利一らが主導していた新感覚派のつくった映画だから。」


●「ふうん。でも具体的な影響もあったんじゃないかしら。海外からの。」


▼「そうだね。しかし文学主導型の映画の見せ方って、今もあるだろ?『セカチュー』もそうだろうし、『東京タワー』だってそうだ。まあ、文学と映画の共犯関係、これは戦前、戦中から綿々と続いていることで、小説を映画という空間的時間的な形式を使って視聴覚的に正当化させたいという欲望があるのかもしれないな。むしろ、これは文学の力がないってことを文学がすでに認めてるってこと。それを「コラボ」とか「融合」とかいう甘えた幻想で補完しているだけだよ。多分。」


●「そうね、融合、いやなコトバだわ。けど、随分手厳しいね。」


▼「まあ、手厳しくやらないと自分に厳しくできないからな。話をもとに戻すと、『狂った一頁』なんて、しかし、これってすでにフリッツ・ラングムルナウドイツ表現主義、またロシア・フォルマリズム経由のエイゼンシュタインがとっくにやってたんじゃなかったっけ〜。とぼくは勘ぐってたんだけど。まあ、あとで調べたところによると、衣笠はラングに師事していたらしく、彼の『十字路』(1928)っていう映画がヨーロッパで上映された最初の日本映画だってことになっているんだけどね。」


●「じゃあ、さっきから聞いていると、モダニズムっていうのは新技法のように聞こえるけど、どうなの?」


▼「その撮影技術や編集技術の更新のされ方というのかな。新しさをそれとして発見させ、上からのロゴス的、イデオロギー的調整によって発動された、モダニズムモダニズムとして認めさせてる共同体的なコンセンサス。それを内面化させる構造がいかにして歴史的に作られ、反復しているのかが問題だと思うんだよな。しかし、そこには映画の根本的な問い―認識が欠けているような気がする。ゆえに技術が消費財にすぐに転落する。」


●「ふうん、映画界に限って言えば、消費財以上のものにならないのよね。モダンって。わかった。君は〔モダニズムは断じて消費財ではない〕という立場なのね、とりあえずは。」


▼「そうだな。もっと作品をつくる上での論理っていうか、避けられない理論的かつ技術的態度なんだと思うんだよな〜。記号論とか以前に。しかし、小津にしても、伊藤大輔にしても、当時認められていた新しさがもう今は新しくない、って言ったら、それはたんなる流行現象、それこそ消費財と変わらなくなるだろ?そういう意味で小津はユニクロなんだ。まったく大衆の体臭がするよな。まあ小津の演出の細かさというか俳優の「あー」とか「うー」というちょっとした発音の仕方でもめちゃくちゃ細かく演出指導していたという意味ではモダン的な態度、ある種のゆるぎなさなんだけど。」


●「そうね。ワタシは映画のことよく知らないけど、映画評論や批評って、なんなの?この世にあるの?」


▼「正直よくわからないな。けど、映画を語る人っていうのはゴマンといてね、映画を見た後に映画について語る。これは強力に瀰漫しているだろう。これは批評的意識が潜在的にあるってことなんだろうな。ぼくは映画館で寝るというのも批評のひとつだと思っているから。・・・今日は○○を見に行った。男が女をナンパして、イタリアン・レストランに入って、男が女を一生懸命くどいているあたりで寝た、それ以外は覚えていません、と。寝るとかアクビっていうのは一種の抵抗であってね。」


●「はっは。それは批評的ね。けど、無視するのが最大の批評って誰か言ってたわ。」


▼「それもありだね。無視っていうのも文字通り、寝ることだ。それを言ったのは、たしかボードレール?」


●「わかんない。」


▼「ボードレールで思い出したんだけど、モダンのフランス語であるモデルニテって最初に言ったのがボードレールらしいね。なんといってもコンスタンタン・ギース。」


●「挿絵画家、G氏。1863年、彼は『現代社会の画家』をフィガロ誌に寄稿した。シャルルは面白いね、「赤裸の心」もカッチョイイ〜し、モード研究もずば抜けてるし。バルトのモードの体系なんかよりぜんぜん面白い。」


▼「まあ、しかし、批評家や評論家がいてもいなくても映画は量産され、消費され、大衆によって批評されることは確かなんだろうよ。ファッションも映画も車も。批評なんてなくっても生き延びるだろうよ。欲望の自動律で。ま、だからこそたちが悪いんだけど。」


●「そうね。映画産業の衰退を嘆くだけっていうポーズというのも、ちょっと・・」


▼「それも、アレだね。重要な問題だ。映画っていうのは権力構造的に言えば、<製作―配給―興行>の三角形があって、いちばん立場の弱いのが興行。つぎに製作らしい。一番金をかすめてるのが配給ってある人が言ってた。まあ、アメリカ資本―シネコンの投下で、小さい映画館はやばいだろうね。カフェをくっつけたり、ライブもできるようにしたり、今はソフトのフォームが多様になっているからハードの整備も大変だろうし。・・・ちょっと横道それるけど、例えば一人の狂った人がいるとして「あいつは狂人だ」と外から言うだけの人と、その狂人をなんとか正常に戻そうと努力する精神分析医、つまり臨床的な現場にいる医者の立場とはまったく違うだろ?ぼくが今必要だと思っているのは、小学校から映画制作のカリキュラムを取り入れること、つまり映画の臨床家にみんながなるってことなんだ。一方的に嘆いてる人って、わりと映画の技術的なこと、現場的なことに関心がない人が多いような気がしてね。」


●「そうね、映画づくり自体はすごく楽しそうだわ。」


▼「そうだね、ある種の中毒性がある。どれだけ儲からない、人生どんどんダメになるってわかっててもやめられないっていう人はたくさんいる。だけど、それを神話化してる人もたくさんいる。そして神話化に甘えて、まったく映画のこと考えない人もたくさんいるってわけさ!」


●「じゃあ、なんとか君が考えて、ボードレール並みのカッチョイーモダニスト映画批評家にならなくっちゃ。それにしても・・・フフ・・今日はちょっと状況論っぽくなったわね。」


▼「ちがうんだ・・・ぼくは批評家じゃないんだ・・・。」



                           (つづく)