三角頭巾とピース・サイン





■中央図書館でいけばな関係の調べ物。戦後のいけばなが東横百貨店なしには語れない事が分かった。


■日活の撮影所や映画学校もある、調布市はわりと映画の街であることを主張していて、図書館の映画本コーナーも別のスペースに特化されている。けっこうな充実ぶりで、使える。『Fs』はなかったけど、『映画学』のバックナンバーが揃っていた。本棚の前で窪塚洋介の詩集をぺらぺらめくる。「自分を信じろ」みたいな聞き飽きたフレーズががいっぱい書いてあった。


■帰りによったラーメン屋の売り子の女の子がすごくよかった。つたない日本語だったので遠くからやってきた人なのだろう。「おぼこい」というか、今風の都会派女子とは一際違う「おぼこさ」をその顔に刻んでいる。たぶん頭に被っていた水色の三角頭巾が妙に古風にして新鮮で、そのおぼこさを際立たせたのかもしれない。店主が差し入れたのだろう苺を食べていて、あまりにも仕事をほったらかして次々と手に取り、ぱくぱく食べすぎていたので、店主が彼女を叱咤し、そのとたん、てきぱきと無表情で手を動かし始めたのが印象的だった。ラーメンは不味かった。


■こじゃれた便箋と封筒を買ったパルコ横の文房具屋の前で煙草を吸っていると送別会からみなのか、5,6人で写真を撮りあう若い女の子たちがいた。「撮るよー」との声と同時にみなさんが恐ろしいくらい健康的な「ピース」を決めたので、ぼくはなんといえばいいのか、意味不明な気まずさを感じた。それはぼくの「ぼくはピースでなくてごめんなさい」みたいな、どこか申し訳なさの引きずる感じからきたもので、「ボクは平和じゃないよ!お前ら平和なのか!平和だったらどこが平和なのか言ってみろ!」と声高に言うのではなく、「ぼくは平和じゃなくて申し訳ないです。」というこちらが萎縮するような感じを瞬時にして胸に刻まれた思いがした。それで、帰りの電車の中で、ずっと「モダニズムの表れとしてのピース・サインと写真のモダニズムの関係」みたいなことを考えていて、学校とかの制度的な集合写真から離れた「みんななかよしーはっぴー」みたいな集合性を表象するにあたっては「ピース・サイン」こそが個別の性格を離れて「なかよし」や「はっぴー」を象徴する場所を構成していて、写真に映る人々が二次的な性格になってしまうのではないかと思った。これがどう近代性=モダニズムに関わるのかというと、「なかよし」や「はっぴー」という目に見えないもの(幻想)を写真に定着させ、幻想を再生産することによって「自分は幸せだ」(あるいは数年後に見てこのときの自分は幸せだった)ということを手軽に確認できる、あるいは過去の自己を現在の自己として現在時に他者に明け渡すことができる装置として、近代性と関わっているということなのかもしれない。けど、近代以前の日本的村社会的な要素もピース・サインがなかなか廃れようとはしない原因にあるのかもしれない。ピース・サインの起こりにもその原因があるだろうし、そもそもいつどこで誰がピースサインをし始めたのか?


■マコーミック社のアーモンド・エッセンスを紅茶に入れるとなかなかいけることが発覚。これは杏仁豆腐の香りつけにも使われているちょっとシナモンを連想させる香料で、そのまま匂いを嗅いでも、いい気分転換になる。こういう手軽な香料は使い勝手がよい。