「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪ その4

「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪ その4





▼「昨日はちょっとぼくが話しすぎたかな。ところで美学専攻の君に聞くけど、美学というか、アート界におけるモダニズムって一体全体どうなっているんだい?ちょっと変な聞き方だけど。」


●「そうね。学生たちの間ではさほど議論にならないけど、ある種の共通の認識としてあるのは1920年代の運動、つまり反芸術的な身振りとしてのダダであったり、デュシャンであったりするのかな?」


▼「へえ、そうなんだ。それはどういう意味でモダニズムなの?というか、反芸術的な身振り=モダニズムってわけじゃないだろ?」


●「そうね、レンブラントクールベ、マネ、セザンヌ以降の流れの切断と言ってもいいのかな。絵画が世界の鏡面としての代行装置を止めたというか否定したというか。レンブラントからセザンヌの流れをプレ‐モダニズム期としてのモダニズムだとすると、デュシャン、ダダが絵画の世界代行性を切断しえた最初のモダニズムってことになるのかな?まあ大学制度的な知見としてはそうなる。」


▼「ふうん、そうなんだ。映画史で言えば、ハンス・リヒターとかマヤ・デレン辺りになるのかな。音楽で言えばサティか、ストラヴィンスキーか。」


●「ハンス・リヒターって知らないわ。」


▼「今は絶版になっているけど美術出版社から『反芸術』って本が出てたよ。まあ、もとは美術畑の人だったんだろな。絵もけっこう面白くてね。でも、リヒターの映画は実験映画っていってもいい。彼の映画『リズム21』(1921)は幾何学的な図形のパターンをキネティカルに見せているだけの5分の映画だし、少し後の『金で買える夢』(1944)はデュシャンの回転盤、ロト・レリーフ、いやアネミック・シネマが使われている。<anemic>っていうのは<cinema>のアナグラムで・・・まあこれはどうでもいいんだけど、しかも驚いたことにケージが音楽担当してた。けど、リヒターもアンチ・シネマって言えばそうなるね。前衛っていう強いニュアンスを差し引いても、あからさまに切断を意志していた。なんせ『金で買える夢』ってのは主人公の眼の網膜が夢を感光させているのに気付いて、この奇妙な特性を商売にしようっていうめちゃくちゃな話のメタ映画・・それはそうと瞼をギュッと押しつづけてたら色斑が現れるだろ。ぼくだったら赤紫色の色斑がギャラクシーな感じで現れるんだけど。あれが夢の画素、ビットに相当するらしいね。」


●「へえ、そうなんだ。」


▼「そう、これはベルクソンが言ってた。」


●「そうなんだ。まあ、ひとつ言えるのは、空間把握の仕方が変成してゆくプロセス、その過程が歴史に含まれてるってことだね。ということは、モダニズムのひとつのプロブレマティークとしては、認識のヒズミをいかに見せるかっていうことになるのかな。感覚のねじれって言ってもいいけど。ようは三次元的にゲシュタルトできる安定した知覚や空間把握が、どうも嘘っぽいということになったんでしょうけれど。」


▼「へ?どういうこと?」


●「例えば、これは有名な絵だけれどエドゥアール・マネの『フォリ=ベルジェールのバー』(1882)。鏡をうまく使った作品だけれど、絵画を見ている主体の位置っていうのかな。たいがいはそこに遠近法が用いられていれば、遠近法に内属するような形で<見ているワタシ>がいともたやすく捏造され、そこにすっぽり包み込まれるような装置に撞着して、安心して絵画に向き合えるわけなんだけど、この絵は鏡に映るべき<その絵を見ているワタシ>が永遠に鏡に映されないことによって、かろうじて、バーテンの少女と目が会うことが許されるっていう奇妙な絵画なの。おわかり?」


▼「はあ?わかんねえよ。見たことないし。」


●「じゃあ、こちらをごらんなさい。」


▼「すごいね、どこからノートパソコンがでてきたんだい?それにしても、なるほど、要するに見ている主体に見ているということを意識させるんだな。この絵は。」


●「そうね、そういう見方。ルネ・マグリッドの『これはパイプではない』とかモロそうね。だけど、それだけだと、なるほど、表象による表象批判か、で終わっちゃうでしょ。だけど『フォリ=ベルジェールのバー』が素晴らしいと思うのは右下のオレンジが盛られているグラスのお皿とか、すごく繊細に描かれているのよね。ちょっとフェルメールっぽかったりして。シャンパンの瓶の光沢とか。こういう、ある種の写実主義的なレヴェルの描写があってこその知覚の混乱、それを見ている主体のジレンマの導入だと思うのよ。それにしてもどうなの?映画ってのも、こういった遠近法の解体とか歴史的にあったんでしょ?」


▼「うん、そうだね、でも絵画と映画は原理的に違うからなあ。例えばリュミエールの『列車の到着』(1895)ってあるでしょ?」


●「うん。知ってる。観客が本物の列車の到着と間違えてビビッてよけたって話でしょ?」


▼「そう、まあ冗談として聞いてほしいんだけど、これなんかは、遠近法による安定性じゃなくてまさに不安定性なんだ。主体の混乱なき混乱。純粋物理のエネルゲイア。パニック映画ならぬ真のパニック映画だったんだ。」


●「なるへそ。『列車の到着』がパニック映画っていう話は、笑えるわね。じゃあ系譜的に言うと、『ハリケーン』(1937)『タワーリング・インフェルノ』(1974)『ジョーズ』(1975)、『ツイスター』(1996)の起源なんじゃないの?」


▼「きみ意外に詳しいね。しかし、パニック映画の系譜学か、ちょっと笑える仮説だな。まあリヒターにおいては『リズム21』は、今じゃFLASHとかパソコンのソフトで作れるような科学実験映画って感じだった。『金で買える夢』はストーリーの脱構築、系列性の強調っていうのかな。ある種のセリー主義に基づいた映画。ドゥルーズを借りて言えば一応は<イマージュ‐運動>の映画なんだけど、運動を切断する変なカットが突如なんの説明もなしに挿入されたりしてね。しかし、タイトルがいいよね、ホリエモンが喜びそうだ。」


●「ちょっとモダニズムの話からズレちゃったけど、大学の制度的な授業としては、そうね、デュシャン、ダダからロバート・モリス、ソル・ルゥイット、ドナルド・ジャッド、つまり狭義のコンセプチュアル・アートの流れでモダニズムを再考するって言うのが支配的かなあ。・・ところでオノ・ヨーコってモダニズトだと思う?」


▼「そうだね。少なくとも森マユミよりかはモダニストなんじゃないかな。フルクサス時代の作品ってどうも説明くさいって感じだけど。存在論的にはモダニスト。ついでに言うとヴィヴィアン・ウェストウッドモダニストじゃない。だけど、川久保玲とキャサリン・ハムネットはモダニスト。なーんて、ぜんぜん根拠のないこと言っている。」


●「川久保玲はそうかもね。岡崎乾二郎の作る三次元物体と川久保玲がデザインする服の共通点は、三次元物体をピースにバラケさせても変換可能性のルールをその物体に措定しているところ。けど、そのルールを放棄できる可能性もあるというジレンマの創出。ようするに空間把握を代表する「今、ここ」の知覚が固定されず、常に通過点であろうとし、決定不能性がすばやく順延されてゆく。そういう意味で「すばやい」かつ「やばい」・・・「やばいっす」」。


▼「はっは。ちょっと無理やりアナグラム。」


●「いや、作品ってのは本質的にヤバイものなのよ。ほんとうに。あと両者に共通するのはザックリした感じかな。カッティング・エッジの強調。いずれにしても知覚を安定させてはくれない。」


▼「へえ。そうなんだ。詳しい・・。」


●「コム・デ・ギャルソンの服って意外に奥深いんだよ。ブランドイメージばかり先行しているけどね。こういう着方もできるし、あういう着方もできるっていう、ようするに身体のスケールを熟知してないとできないんだよね。・・・具体的に言えばひとつの服がふたつの服になる可能性が内属しているの。単一の服が単一の個人の写像にはならないのよ。まあ、ぜんぶの服がそうじゃないけど。」


▼「フムフム。まあお互いずいぶん勝手なこと言ってるけど・・・じゃあ、モダニズムのひとつの見方としてあげられるのが、なに?ザックリした感じ?」


●「まあ比喩的な擬音としては「ザックリ、ガッシリ、ビッチリ」であり、それをどう捉えるかっていう問題機制。しかし、これはかなり一般的なイメージであって、よりドグマティックかつユニバーサルに分析していこうとすれば、ここからの議論が難しいんだけれどね。フフン!」