『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』をめぐってのソフトな会話♪
●「あおいちゃん、カワユイ・・・」
▼「そうかなあ。あんまり好みじゃないな。むかしの岡田茉莉子の方がよっぽどキレイだよ。やはり『秋津温泉』(1962・監督/吉田喜重)かな。昔、四方田犬彦っていう映画評論家が「『秋津温泉』みたいな人生があったら・・」なんて思いいれたっぷりに言っててね。で、君は浅野忠信君か中原昌也君かどっちが好みなの?」
●「どちらかと言えば中原君かな。なんかすごく屈折してそうで。浅野君もかっこいいけど、やっぱり『バタアシ金魚』(1990・監督/松岡錠司)時代の彼が好きだわね。坊主頭の。」
▼「そうだね。浅野忠信っていい人過ぎるっていうか、悪いことやってても結局いい人になっちゃうというか。そういやバタ金って筒井康隆じゃないや、筒井・・なんだっけ?」
●「筒井道隆」
▼「そう、彼と高岡早紀の共演だったんだよね。・・・けど、新宿テアトル、始めて行ったけどなかなかいい映画館だったね。さすがに日曜日だけあって、結構入りはよかったのかな?」
●「スモーカーのワタシとしては、ロビーも完全禁煙ってのはねえ。」
▼「けど、館内に非常灯がなかっただろ?館内の照明落として完全なブラックボックスになるってのは、ちょっと珍しいんだよ。煙草を吸う→火事になる→非常灯を館内にもつけなきゃならん→ブラックボックスの良さが損なわれるって事から回避できているだけでも、いい映画館だと思ったな。しかし予告編が長すぎるんだよな。最近。」
●「そうね。あれじゃ予告編だけでおなか一杯になっちゃいそう。ところでレマ・レマ・ステッカー問題はどうなったの?」
▼「レマ・レマじゃないよ、エリ・エリだよ。あのステッカーはトースターに貼ったよ。ポップアップ式の結構カワイイ奴なんだけどね。トーストを食べる前に必ず胸に十字を切って「神よ。なぜワタシを見捨てたもうや。」って言うんだよ。いただきますって言っちゃいけないんだ。冗談だけど。」
●「わけわからん。ふふ。で、感想はどうだった?」
▼「フランク・ザッパ」
●「はあ?」
▼「スーザン・ソンタグ」
●「はあ?」
▼「今までの青山監督映画には4ピースバンド的なる何かを感じてたんだけど、とうとうフランク・ザッパの次元に突入した・・・・、ぜんぜんわからない説明だね。」
●「そうね、」
▼「それはそうと、ギタリストのデレク・ベイリーが亡くなったんだってね、去年の暮れに。」
●「そう、あとナム・ジュン・パイクも、1月末に死んじゃった。」
▼「ともにご冥福をお祈りします・・・天国でもギター弾いて、ビデオアート楽しんでください。・・・しかし、あれだね、ギター鳴りまくってたね。で、君はどうだったの?映画は。」
●「そうね。やっぱり後半がちょっとねえ。あんたはどうよ。」
▼「そうだね、実は、後半はおしっこ我慢してたんだ。けど集中してみてたよ。ぜんぜん眠くならなかったし。トイレに行って、戻ってきてエンドロール流れてたらショック〜っていうね。で、がまん。そうね。不思議な映画ではあったけど、なにが不思議かっていうと・・・・場所を欠いている・・ぼくはずっと場所を欠いてる・・欠いてる・・・欠いてる・・どこやねん、ここっ。て反芻してたな。北海道ってわかってても、どこやねんって具合に。不思議な中立地帯ですべてが進行しているっていう。おおげさに言うとロブ=グリエ&アラン・レネ。だだっぴろさはアントニオーニやパゾリーニをややもすれば想起させるんだけど、ぜんぜん感触が違う。」
●「そうかな。場所を欠いてる?・・・ああ、土地に固有の記号性の高さって言うの?ここはどこそこです、だからこういう見方してねっていう指示形式がなかったからね。いっさい。時間軸にしても、SFっていう情報は与えられていたけど、映画の中には指示がなかった。」
▼「場所や時間の帰属性が希薄っていうのは全然OKだったな。それを指定したところで、作品に固有の輪郭ができるっていうのも違うしね。まあ、ドキュメンタルな位相を音に絞ったんだろうな。音のドキュメンタリー。岩波映画でもやってなかったんじゃないか?知らないけど。」
●「だから前半がよかったってことでしょ?」
▼「そうね。前半後半って分け方も、ちょっと違うかな。わりと「ここはどこ?」っていうのが、最後まで見ている間ずっとあってね。まあぼく的にはそこがよかったんだ。ずっとそわそわしてる不安定な感じをつきつけられてね。純粋浮力じゃないにしても反重力的っていうか。『レイクサイド・マーダーケース』は見てないんだけど、『月の砂漠』のような重さはなかったな。チャリンコのショットが効いてるんだよな。二人をパトロネージしている岡田茉莉子のペンションの大きな窓越しからチャリンコ乗ってふと去ってしまうショット。しかもペンションの全貌が外から説明的に映されないってのが、ふわふわ感のポイントでね。」
●「なるほど。でも、ふわふわと言えばミニマムなピアノの音はよかったね。アヴァン・ポップな感じの。」
▼「そう。あれがなかったらかなり苦痛だったかもしれないな。けど、一番おっ!って思ったのはあれ、掃除機のホースをグルグル廻すところ。あの音、あれは監督デビュー作の『ヘルプレス』の冒頭シーンの音、空撮ショットにかぶさる音と、同じ音なんじゃないか?」
●「そう?」
▼「きっとそうだよ。同じ波形だよ。しかし、この音も物語には直接的には関係ない。ただこういう音が鳴りますっていう科学教育的な側面しかない。でも、音を採取するってのをこれだけ映像で見たの初めてだな。なかなか興味深かった。最初の砂漠に忽然とあるテントの中で、ハエが食べ物たかりながら飛んでいるブーンって音拾ってたでしょ?うわっすごくいいシーンだなって思ったね。美的判断でもなんでもなくて、それがゲーテ的な意味での自然科学の対象になっているっていうね。そしてそのあと、中原君の腕がぐうぜん牛乳パックに当たって、それを床に落とすんだ。その流れがすごく気になったな。テントの中には無造作に死体が転がってて、しかも、その死体には一切無関心。だから感情移入できる契機をあらかじめ切り捨ててるんだなって思った。」
●「へえ。どうして牛乳パックを落とすのが・・・??」
▼「どうしてだろな?牛乳パックを落とす、そこを見せるってことに監督は多分なんの執着もなくてね。しかし、それは自然の物理としてただそこにあるんだよ。物語への無関心性がそこに一気に集約されてるような気がしてね。実際、いずれにしてもストーリーを一生懸命見せるっていう映画じゃないよね。」
●「そうね。音の物質感の放擲、あとは、なんだろ、「遠心力」っていうキーワードもあるのかな。掃除機のホースをぐるぐる廻すのも含めてね。この映画には生の意味とか死の意味とかの表現は一切ない。」
▼「中原君が途中で死んだり、探偵がピストル自殺したりするけど、なんのリアリティーもないし、リアリティ−がないというリアリティーしかない。予め感情移入できないように狙ってるんじゃないかな。ぼくは青山監督の全作品は見てないんだけど『ヘルプレス』から『ユリイカ』まではまだセンチメントの残滓っていうのがあったけどね。それがあのモノモノしくも、優しげなピアノの音だけに還元されてるってのがよかったな。位相が変換されたような気がした。」
●「音の採取過程が一通り終わって二人がマスクとゴーグルを取ったでしょ。そこからなんだか、つまんなくなったな。」
▼「へえ。なんでだろ。」
●「ようするに人間の顔ってもともと鬱陶しいものなんじゃない?」
▼「あ、じゃあ顔を意識して見てたんだね。まあ分からんでもないな。浅野忠信〜もう見飽きたよ〜、またかよ〜みたいな。・・まあ、顔の表象に関していえば、今はちょっと面白い時期なのかもしれないね。」
●「へ?どう面白い?」
▼「煎じ詰めると見せたい派と見せたくない派と、二極分解しているのかもね。ようするに自分の顔なんてのも仮象に過ぎないという認識と自分の顔を実体とする認識の分裂。しかし、美のイデアがリサイクルされる限り、美人が、そして女優が「美の工場」で生産され、この世をせっせとリードするわけだよ。しかし美人なんてのはほんの一瞬チラっと見るのがいいんであってね。じっくり見せるものでもないし、じろじろ見るものでもない。あおいちゃんの見せ方にしてもあのくらいがいいんだ。」
●「なるほどね。じゃあ、レミング病とかの伏線はどうだった?」
▼「そうだな。伏線としての大富豪、世界的に有名なノイズ・ミュージシャン、あとパトロンっていうまあアッパークラスの中で、レミング病が発病しているあおいちゃんなんだけど、あおいちゃんは生きる意志を失っている。というか現代っ子的にあっさり自殺したいと、それを口にする。だからと言って、助けて〜的な言動とかない。ぜんぜん感情移入できないんだよな。まあアッパークラスで固めるっていう大げさな設定はいい意味での映画的ハッタリなんだろうね。まあ、ぼくとしてはしかし、あおいちゃんのレミング病の治癒をノイズ一元論的にはやってほしくなかったな。」
●「ノイズ一元論?雑音のカタマリってことかしら?」
▼「ううん、まあそうともいえるけど、前半にあれだけ個物の音を採取しているわけだから、個物の音の集合として、その複数性の重層化された形という意味でのノイズっていう視点があったほうが「隠喩としての病」(スーザン・ソンタグ)を治癒する間接的な隠喩になりうるっていうかね。ややこしい言い方だけど。けど「形としてのノイズ」というのは語義矛盾だし・・」
●「ノイズまいなす1くらいの感じかな?」
▼「うう、ちょっとちがうな。トマトを潰す音と牛乳がこぼれる音を同時に聞いたらこうなってああなってとかね・・そういう媒介項・・でっちあげでもいいから音の組み合わせ論理みたいなものを作ったほうが、音の採取っていうのを生かす方向になったんじゃないかな。」
●「あっ、なるほどね。」
▼「そんで、SFっていっても一般的なSF的イメージに回収されないいい意味でのアナクロニズム―抵抗材を導入してるし、それこそ掃除機とか傘とか貝殻とかね。で、個物の音にチューニングあわせるってのはフィクションとしては成立するとは思うんだよ・・・まあ音そのものとの距離のとり方になるのかな。「爆音即治癒」っていう直接的な構図がちょっと残念だったな。」
●「あ、それは感じたな。ワタシの隣に座ってた人も、うるさいなあってボヤイてた。」
▼「音=刺激ってなると、それはたんなる効果になってしまうからね。まあ治癒っていうのは効果だから仕方ないか。しかし、浅野忠信がアンプの前でハウリングをぎりぎりの距離で起こさせるところあったでしょ。そのシーンとか、最後あおいちゃんが目隠しして、浅野君のギターの轟音を聞く。そのシーンで全方位的にカメラが旋回する。まさに治癒のシーン、クライマックスなんだけどね。それらのシーンなんか見てたら青山監督は「音の定位」、サウンドのロケーションには十分拘っているとは思うんだけど・・・なんというかな、映画を離れていうと、ぼくが苛立っているのはノイズっていう名詞がノイズしか名指さないことなのかな。音として解析できない時点でそれはノイズとして名指されていいのかっていう問題。ノイズっていう単語が否定神学的にあらゆる音を一気に束ねてしまうこと。その裏面として発動してしまうノイズ・デモクラシーという理念めいたもの。」
●「ノイズ・デモクラシーって何よ?」
▼「一種の否定性の目的化だね。ちょっとカッコつけて言うと、クリステヴァ―中上健次的な意味でのアブジェクション理論を適用するならば、この映画にあるアブジェクションってノイズそのものなんだよ。物質としてのノイズにはこの世の悪、ネガティヴィティーがすでに憑依しているって言う認識かな。それで、ノイズがあおいちゃんのレミング病=悪を吸収するっていう意味で、ポジティブなものに転化されうる。その転化=新たなる生成を目的化する事によってノイズを理念化させるっていうのかな。その理念化されたノイズがノイズ・デモクラシー。つたない説明だけど。けど、お坊さんの読む御経とか、般若心経とかって、あれは音でもあり、ノイズでもあり、見えない薬―超越性の顕現でもあるっていうでしょ。」
●「なんとなく、わからんでもない・・。じゃあ浅野忠信はシャーマンだったのか!イタリア未来派の騒音芸術家でもあるマリネッティーなんかも想起させるけど。今の話。」
▼「そこで、またまたウンチクたれるようで何だけど、古くはジグムント・フロイトの『フェティシズム論』(『エロス論』所収)から最近ではジャック・アタリ博士の『ノイズ―音楽・貨幣・雑音』までが言ってたように、雑音=貨幣=糞便が畏怖/排除の対象であり、同時に必要不可欠な受容物でもあるってことを踏まえると、その意味では<音→雑音→雑音の受容→レミング病の回復>っていう図式を完成させるためには、音ではなくて、やはり雑音=ノイズが必要なのかな?というふうにも思える。」
●「じゃあ糞便はどこいったのよ。貨幣と雑音ってのは分かるけどね。よくよく考えてみるとさあ、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』って貨幣で雑音を買うお話なのね。」
▼「はっは。そうだね。そりゃそうだ。・・まあ糞便ってのは死だよ。中原昌也の死であり、探偵の死。それにしても、おっ!百葉箱が出てきたって思ったら、死んだ中原昌也の仏壇。っていうかお墓?サイバーお墓だ。」
●「探偵の死はなんか唐突じゃなかった?」
▼「そうだね、いちいちあっさりしてるんだよなあ。シネフィル的な話すると、ヴェンダースの『さすらい』(1975)だったら、あのだだっ広いロケーションでルディガー・フォーグラーがちょうど脱糞するんだよ。でも探偵は頭を短銃でぶち抜く。そうだね。垂直の運動から水平の運動に変化しているっていう。こじつけで言うと。」
●「なるほどね。カメラワークとか編集とかはどうだった?」
▼「そうね。編集に関して言えば、ちょっとやりすぎっていうか、お客さんの退屈を恐れすぎているような気がした。これもとくに後半かな。あのクライマックスのハチャメチャな編集ぶりって、あっエントロピー増大ね、ってわかっちゃうからなあ。ぼくとしてはもっと退屈でいいと思ったよ。もっとフニャフニャ、ぐらぐらで、構図も崩れっぱなし、猿が撮ったんじゃないかってのが見てみたいな。猿が『猿の惑星』をリメイクしてるみたいなSF。ライブハウスっていうか小箱における二人の演奏のシーンも、きばって編集しすぎなんじゃないかな。ミュージック・クリップ的な編集は完全否定した方がいい。平板な固定ショットひとつでつなぐ方が際立つ。それこそアントニオーニの『ブロウ・アップ』のモッズバンドのシーンみたいな異化のさせかたね。あと、中盤に海上に飛ぶカモメ(?)のショットがひとつ入るでしょ。あれは素晴らしくよかった。だけど、あそこでばっさり音を切ってサイレントで見せてほしかったなあ。これがぼくの言う<爆‐音>ならぬ<爆‐像>なんだけど。そして冒頭の大津波を斜め俯瞰で狙うショットも音はないほうが・・・って勝手な自己願望を承知の上で言うとね・・・それはそれで一杯指摘したいところはあるわな・・・あと相変わらず横移動はいいね。なぜいいんだろうかってずっと考えてるんだけどね。」
●「そうか。けど実際のノイズ・ミュージシャンとか見たらどう思うのかしら。」
▼「青山監督はメルツバウの秋田昌美を使うべきだったんじゃないかって?ちょっとソフトSMっぽい要素もあったりしてね。ま、それは冗談としてううん、個人的には<System・Planning・Korporation>か<Nurse with wound>っぽい音を期待してなかったわけではない。全体的にはT・Gっぽいね。まあ、そういうオタク話は控えるとして。・・・・そうだね。ぼくだったら、二人で仲良く音拾っているよりも、誰にもその行動が理解不可能な、強烈に孤独な少年がなりふりかまわず血眼になって昆虫採集するような図式でやるなあ。彼はすげえ対人恐怖症でね。しかし腹へったらパトロンのところに行ってメシ食えるって、すごい甘えた環境だな。ヘルプレスレスだよ。なんだかんだいって主人公を甘やかす町田康の小説みたいでちょっとひっかかったな。」
●「そうか。まあいろいろ手厳しい批判もあるってことね。」
▼「批判っていうか、ぼくだったらあーするこーするっていう勝手な話だよ。まあ、正直言って青山監督作品の中では一番よかったよ。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』に関しては映画における音の可能性のヒントをひとつ提示してもらったっていうかね。ひとつの開闢ではあった。まあこんど3月4日に横浜美術館で上映されるモノクローム映像の青山監督も出演してて、ぼくも制作に関与した『HOTEL CHOLONICLES』と青山監督の短編『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』(しかし、いいタイトルだわ)の二本立ては青山真治ファンのみならず、すべての日本映画人は必見なんじゃないかな?」
●「へえ、そんなのがあるんだ。しかし、なんだよ日本映画人って。ネアンデルタール人か?」
▼「そう、いかなる状況下においても、短編をサッサッと作る能力があるって言うのは、素晴らしい。それより、諸君、頭脳警察の正体が問題だ。」
「家に戻れたら」なんてほざいてる場合か
プラスティック、クロームまみれのあそこは
とっくにメルトダウン済みだぜ
それより、諸君、頭脳警察の正体が問題だ