IMAGON STUDIES 8-1
▼「おはようございます。今日はあまりまとまっていないんですが、というかいつもまとめてはいないんですが、いつもどうりざっくばらんにすすめていけたらと思います。」
●「なにから行くの?」
▼「そうだねえ、アーケードゲーム。」
●「日曜日の午前中によくゲームセンターに行ってるって言ってたよね。」
▼「そうそう、近所の国領というところにセブン&i ホールディングスが経営母体となっているイトーヨーカドーがあって、その3階にゲームセンターがあって。」
●「ファミリータイプの郊外にありがちな大きなスーパーマーケットだよね。」
▼「そうね。日曜日の午前中って僕が昔小学生の頃ゲームやってた時間帯だからかなあ、その名残か。女の子が<アイカツ!>のゲーム一生懸命やってるのが面白いね。まあ親がだいたい横について見守ってるんだけど撮影したくなる対象。情操教育装置というよりも身体矯正機械。あと、特別コーナーみたいなところで妖怪ウォッチ体操とかもやっているよ。ヨーデルヨーデル♪って。けど、コインゲームコーナーは老人の溜まり場にもなっててね。結局ゲームセンターには若者がいないんだ。」
●「妖怪ウォッチって今度映画公開されるけど、前売り券の発売数もすごいんだって。完全にメダルで吊ってるんだけど・・・で、ゲームはどんなのやってたの?」
▼「僕はインベーダーや平安京エイリアンからだいたいギャラクシアンからギャラガまで至るシューティングをやってたな。クレイジークライマー、ラリーX、ペンゴ、パックマンなんかはもちろんやったけど、70年代後半のシューティングがいちばん。シュートして、敵機が爆発してっていう単純なやつが好きだったな。まあ人並み月並みなやつばっかりだよ。コロコロコミックで連載していた『ゲームセンター嵐』みたいにあまり気合いの入ったゲームアティテュードはなかったな。」
●「あれ?ゼビウスとかは?」
▼「ゼビウスはだいたい1983、4年あたりかね。あれは初の縦ロールのシューティングで、画期的だったんだけど、隠れキャラなんかが仕込んであって、なんか子供だまし的に辛気くさいゲームだなっていう。これゲーム音楽担当が細野晴臣だからかしらないけれど、音響出力の系統と、スピーカーシステムがたぶん格段にアップした。単的に音質がものすごくクリアになったという気がしてたな。と今になって再認する(笑)」
●「けど、1985年あたりにファミリーコンピュータが任天堂から発売されて一気に家庭内ゲームに移行したんだよね。たぶんゼビウスと同じ時期だったな。」
▼「そうそう、うちも父親が将棋ゲームやりたいがために購入してたけど、僕はそんなにやらなかった。」
●「二人でプレイできるスーパーマリオブラザーズの登場で一気に盛り上がったんだよねえ。」
▼「まあファミコンは何回もコンティニューできるから、生活堕落するって。コイン1枚でどれだけ楽しめるかという緊張感がはじめから奪われている。今のゲームアプリなんかは課金性を採用しているのも多くてそれなりに緊張感が保てるみたいだけどね。」
●「アーケードゲーム時代のコイン投入(スロット)に対するフェティッシュが完全にないのよね。」
▼「そうそう、スロットというのはアーケードゲーム機の基本フェティッシュであって、オーディエンス→パフォーマンスという一体感がかっちり生まれるきっかけになるとは思うんだけどな。自動販売機でも公衆電話でもスロット行為ありきなんだけど、オーディエンス/パフォーマンスという環境フレームがないのよね。」
●「なんで缶コーヒー買うためにパフォーマンスせなあかんの?(笑)」
▼「まあオタクの起源をいつに求めるのかはさておき、ファミコンはお宅でやるしかなかったインドアメディアだったので、やりすぎると虚脱感、虚無感が助長される。」
●「たしかにゲームやってる人、好きな人って、ちょっとダサイとは思ってたな。イケメンがドラクエの話したとたん、興ざめしちゃうっていう・・」
▼「そうね、わざわざゲームやんなくても、この世で生きることがゲーム相似であって一行為がその都度のギャンブルなんだって僕は昔から言っているけどな。しかし、ロールプレイングゲームってやったことないし、まったくやろうとしなかったな。」
●「物語嫌悪!・・ってゲームってまず比喩的に使われることが多いでしょ?」
▼「そう、まずもって恋愛ゲームとか。」
●「そして人生ゲームとか。」
▼「人生ゲームってあれ完全にアメリカ的成り上がり思想叩き込み装置でしょう?」
●「そうだっけ。なんかあんまり覚えてないな。ドル札のおもちゃ紙幣みたいんなんは覚えているな。あと子供生んだらピンさすのよ。車に。」
▼「そう、後部座席にね。」
●「ともあれアメリカという国は戦争とゲームを合致させるというか、そういうパラダイムが強固にある。」
▼「戦争/ゲームの大文字のパラダイムの中にある種の戦争映画のパラダイムが組込まれているともいえるんじゃないか。」
●「それはそうかもね。でも、どうして今回はゲームを取り上げるの?」
▼「うーん、そこがちょっとまだはっきりとはわからないんだけど、なんかゲームを語るってけっこうな盲点のような気がしてね。」
●「どうして?」
▼「僕はだいぶ以前に『それはポンから始まった』(赤木真澄 アミューズメント通信社 ISBNー4ー9902512ー0ー2)という書物を読んだんだ。これはアーケードゲームの歴史を網羅的に扱ったものとしては第一級の資料なんだけど、日本語で書かれているものでは結局この一冊しかないんだよ。」
●「へえ、そうなんだ。」
▼「国会図書館の書庫の中で発見して、ぱらぱら立ち読みして面白そうだと即座に反応した。そんで書店で購入しようとしてもどこにもなくて、どうやら注文販売ののみの扱いになっていて、ちょっと驚いたな。」
●「へえ、そういう書物もあるのね。」
▼「そんで注文しても品切れだと店員にいわれて、別の図書館から取り寄せてもらって、全ページコピーしたんだ。今となってはamazonで注文できるんだけどね。」
●「ゲーム史を語るってことはけっこうヤバいことなのかもしれない。」
▼「将棋とかチェスにみられる古典的なゲームじゃなくて、電子基盤を組込んだいわゆるエレメカは特にヤバいのかもね。」
●「ポンっていうのは?」
▼「ポン pong は、アメリカのアタリ社が開発し1972年に稼働したビデオゲームで卓球 ping pongをモデルにしたもの。」
●「ああ、パドル(つまみ)をクルクル回してボールを撃ち返してゆくやつね。」
▼「この時点ではサイレント(無音)なんだよね。アーケードビデオゲームのサイレント時代。」
●「そうだね。たしかブロック崩しもサイレントだった。」
▼「日本ではあまり見かけなかったけど、アメリカーヨーロッパで1980年代初頭までゲーム機市場を形成したメジャー機だったとレポートされている。日本の太東貿易(タイトー)が開発したスペースインベーダーが世界的にヒットするのは1978年からで、このあたりからはゲーム機が完全にトーキー化(音声化)されるのよね。」
●「ともあれ、ゲーム機にサイレント期があったというのは映画史にも通じるところがある。」
▼「『それポン』によると、ゲーム機の起源をエジソンのフォノグラフにスロットをとりつけたものに求めているんだけど、これはサイレントではなく、音を売り物にしていたんだ。」
●「フォノグラフってようするに蓄音機のことで、最初は口述筆記に使われていたのよね。エジソンは商用化に反対していた。」
▼「にもかかわらず、1877年サンフランシスコでルイス・グラスが、スロットをとりつけて<ニッケル・イン・ザ・スロット>を開発した、ということになっている。」
●「どんなものなの?」
▼「耳に聴診器みたいなもの、いわゆるヘッドフォンなんだと思うんだけど、それをとりつけながらコインを投入すると音が聞こえてくるという、」
●「ジュークボックスの原型よね。」
▼「そんで、アメリカの主要都市にフォノグラフパーラーというゲームセンターの原型ともいえるものができあがっていて、ペニーアーケードへと発展してゆく。」
●「それがアーケードゲームと言われる起源なのよね。」
▼「1ペニー銅貨で遊べるという安価性が売りのペニーアーケードはディズニーランドの中でも再現されていて、UFOキャッチャーの原型ともいえるスティームショベルや、たんにおばさんの自動人形がタロット占いをしてくれるタロットマシンなんかが置いてあるんだ。」
●「あなたディズニーランド嫌いなんじゃないの?」
▼「研究しがいがあるってわかっていても、まあ嫌いだよな。でもまあ、アーケードゲームを遡行的にコレクトしてパフォーミングしているのはここだけかな、という気がする。」
●「娯楽にはアミューズメントとアトラクションの両面があるのよね。」
▼「そうだね。」
▼「『それポン』が面白いのは、証明写真の箱形自動販売機械も、アーケードゲームに起源があったという視点をもっていることで、スロットというコイン投入の仕掛けがアーケード性の基礎的な特性として捉えられている点かな。」
●「プリクラも自動販売機でありながらもゲーム扱いされているという。」
▼「そうね。」
●「それはそうと、エジソンが発明したフォノグラフっていうのは蓄音機→ジュークボックスという流れをつくったけれど、ペニーアーケードに設置されてあったキネトスコープなんかは、今でいう(写真アプリなどにもともとマウントされている)スライドショーをわざわざ覗き込んで見る装置で、キネトスコープ→キネマトグラフ→シネマへと発展してゆくのよね。」
▼「キネトスコープは僕が子供の頃、デパートの屋上の遊戯場には設置されていて、何回か見た記憶があるなあ。高島屋だったと思うけど。」
●「なんか、マンガ日本昔話的なものも見れたわよね。」
▼「そうそう猿蟹合戦とかね。あれエジソンが発明したっていうのは子供の頃知らなかったし知らされてなかったよな。」
▼「連続写真という意味では、マイブリッジの方が映画の機械原理をうまく表象していたんだとは思うけど。」
●「ロシアの映画監督レフ・クレショフが発見したクレショフ効果なんかは、イメージの一定持続という観点抜きに語れないので、どちらかといえばキネトスコープよりのアミューズメントに直結していく。」
▼「一方でアトラクションはエイゼンシュテインの<アトラクションのモンタージュ>の理論でも知られているように、ハリウッド的な倍音性に直結してゆく。」
●「とまあ、映画の言説に関していうと、80年代に録画機能がついたビデオデッキ、レンタルビデオの普及がはじまって、ビデオカメラの小型化がついに限界を迎えて、90年代にコンピュータによるノンリニア編集が導入されたあたりから、映画制作/映画視聴の<エジソン的回帰>(山田宏一)がなんとなく一方で浸透していて、映画が集団性をいったん離れてより個的なものになってゆく。というのが一般的な見解としてあるよな。」
▼「これは映画館の集団性=熱狂性がだんだんとスポーツ空間に似てくるのとは逆に、一方で個的になってきたということであって、、」
●「そうそう、現在スマートフォンで短編映画っぽいもの作ってWiFiに送り込んで消費させるというメカニズムも、エジソン的回帰の一端を担っているとしかいいようがない。」
▼「<こっそり見る>という視覚がもともと持っている特性と近代的自我がくっついてゆくというエピステーメーが機械原理的に完成したのが20世紀初頭だとして、なおも、恐るべき速度で進んでいるテクノロジーの小型化、携帯化も、自我を小自我化させる一端を担っているだけのことだとして、、」
●「このあたりから再びコンテンツの<シェアー共有>が映画的集団性と関係あるのかないのかという問題提起が再始動するのかもしれないね。」
▼「いやあ、シェアは集団性の先行実践であって、集団性そのものではないよ。」
●「そうですよ。」
▼「じゃあ、今回はこのあたりで終わりましょう。事前告知では、フィボナッチ級数とアート、デ・クーニング展の感想
含めて、語るつもりだったんだけど、一気にやるのはよくないと判断。またやりますよ。では!」