ズレ込み、ズレ込む 2


宿命的音響。新宿や渋谷、池袋などの大きめの駅ホームのアナウンスは多方向から同時的に耳に届き、ズレにズレ込んでいて、アナウンス音声が独立した完全な線を構成しない。音声どうしの乗っ取りあいが基礎的な聴取場を形成していて、乗っ取りあいによって切断されたり再び流れ出したりするズレの錯綜したノイズを浴びることになる。(たんにウルサイのだが、ウルササの強度といったものがある)。とくに目立つのは山手線の列車着時のシグナル音響で、独特の低音増幅がなされていてる。鉛筆の芯のような、ゴリっとした核のような強さ、鋭さ。音のたちあがりに設定されたその核音は、どんな喧騒の中でも、必ず聴取可能な音声だ、だから安全なのだ、と主張しているようである。





この場所でのアナウンス聴取に関しては、遠近感を頼りにすることができる。1番線ホーム、2番線ホーム、以下・・・と複数ホームが続くなかで、自分のスタンド・ポジションは音響の遠近感が決定しているという、どこか転倒した視聴覚認識がなされているようである。わたしがここに立っている、のではなく、音響の遠近感がこうだから、わたしはここに立っている。というふうに。





映像、音響の錯綜は、都市においては宿命的な空間原理になっている。都市を歩いているときの浮遊感、夢見感は、この映像/音響の絶え間ないズラしに包囲されているから起こる。錯綜、流れ込み、切断、圧縮、拡散、放擲、渦巻き状遠心化作用、全景化、突然の消滅など、瞬時瞬時の音響混成体、いわば「起源を欠いた音」「故郷のない音」の総体が都市音響の相貌である。





こういったデリリアス/カオスから音声と映像を情報として析出し、方向づけ、ばらばらになった線を個々の身体を基点としてまとめ上げる。それが都市を歩く、という能動状態である。そうすると都市歩行は、映画制作という形式に相似する。目的的理性に沿った目的的映画をつくるものもいれば、目的(エンド)を放棄し、宙吊りにしたソニマージュ的な映画に留めておくものもいる。もちろん「遊歩」(ボードレールベンヤミン)は後者に属する。