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■ 39  メモ・・・リュミエール期とエディソン期の余白




映画にとって「YOU TUBE視聴」などの動画環境がもたらす個的全能感の<自己充足性/自己完結性>は一言で言えば「オシロスコープ的退行」であり、「エディソン的退行」である。さしあたり1対1の対応性(情報送信者−受信者の1対1対応)は現在時においては、「ネットと向き合っているワタシ」という全的現象によって完遂されている、とひとまず指摘することができる。それでは、この「視聴覚平面のフロー」と「被−視聴覚的主体の持続」のカップリングは、レトロスペクティヴに捉えると、いつ頃始まったのだろうか。おそらくは15世紀以降の「タブロー絵画」をベーシックに「<絵画の音響化>/<音響の視覚化>」を科学技術化したトマス・エディソンが発明した「<フォノブラフ>/<キネトスコープ>」の都市内在化/流通化、この時期にあたると思われる。そしてサロンを中心にしたプティ・ブルジョアジーを中心に広まったニューエスト・テクノロジーは、「たった一人で見るという個的全能性の悦楽」を増幅させることになるだろう。ややアナロジカルに整理すると、18世紀〜20世紀のPEEP SHOW(ポルノグラフィックな覗き部屋)と19世紀のオペラハウス(主にワーグナー以降の)と20世紀のシネマ(CINEMAの原義は「映画」ではなく「映画館」である)が同時成立していた時期があったのだ。しかし、興味深いのはエディソンがトーキー映画出現の遥か以前に、トーキー映画的な装置を作っていたという事実性である(映画スタジオの原型ともいわれる「ブラック・マリア」の出現を想起しよう)。映画制作における「胎内的環境依存」の初発段階に定位する「エディソン的問題系」と「リュミエール的集団性の問題系」、その差異。(2011−12−6)

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