■38




■38  笑いについて



「BIWAKO ENEMAに煙巻かれした「便秘」も完治しようとしているこの12月5日・・・僕はギャグについて思考するとしよう。・・・さて、1900年、フランスのフィロソファー、アンリ・ベルクソンの『笑い』によると・・・、そして中国の古典『金瓶梅』の一節によると・・」という書き出しで書こうと思ったが、全然その気ではないことが即座にわかり、以下、書くにまかせて書く。「僕はギャグが・・笑いが好きだ。」(←おめえー何言ってんだよ、そんなのわかりきってるよ、ワッハッハ)..<ギャグ・・笑い>とは実にコンビニエンスであるが、実に奥ゆかしく、実に味わい深く、実に必須条件であり、実に必然的であり、さらに必要物であり、実に頼もしく、実に力強く、時に美しくもあり、全面的にソウルフルでもあり、時にセンシティヴでもあり、さらに笑える過剰を目指すものであり、生の充溢を保証するものであり、死を遠ざけるものであり、やたらなアファーメーショナルな余韻を残しつつ、次なる笑いを醸成し、芳香芳醇な生のサイクルを準備してやまないものである。さてここで、「笑い−ギャグを思考するにあたっての超基本事項」を整理しておこう。




■A ギャガーの主体性は次の3つの行為に準拠する。


(A)言表行為にコード(意味)を与える。・・・物質レベル

(B)それをディスコード(脱−意味化)する。・・・メタフィジカル(形而上)・レベル

(C)ギャグを放つ・・・物質レベル



■B そして、被−ギャグの主体は上記(A)(B)をレセプトした上で、(C)をデコード(解読)しようとする。しかし、言表表面の解読不能性において笑いを生発させる。(笑いそのものは常に点的であるが笑いが生発するプロセスは常に線的であることにも注意しよう)。この次元において、「被−ギャグ」の主体は次の3点においてギャガー(発−ギャグ者)を把持/把握しなおす。(これもまた当然すぎる「コミュニカシオン/ミスティフィカシオン」だ。)



(A-1)

放たれた<言語ー意味>は、計らずとも<意味>のままに留まっている。

(B-1)

<脱−意味化>された<言語ー意味>は、言語生活のハビトゥス(慣習)によってナンセンシティヴ(無意味化的)な領域に放擲される。

(C-1)

(A-1)と(B-1)の差異において、ギャガーのレセプターは、「放たれたギャグのギャグ性」を感受する。そして笑い、笑いが出来事として起こることを事後的に認める。



■A、■Bの認識は基本事項であり、生を享楽し、疎外論に堕すことなくそこそこの想像的快楽性に身を任せつつ生きている者ならば、実践しようとせずとも、実践していることである。







■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■