はこ


今日は電車に乗った。なぜ電車に乗ったかというと、電車に乗りたかったからだ。(ぼくは最近「箱」に注目しているのだ)。そこで電車に乗りながらふと思ったことをふたつ。ひとつめ。まず、あたりまえのように外に景色が見える。空、雲、家、ビル、看板、鳥、鉄塔、電線、太陽、いろいろ見える。だが、視線をググッと手前に近づけてみると、(専門的にはなんと言うのか知らないが)レールを敷いてある周辺に無数にある石ころの群れがあり、その群れ自体は一気に把握できないのだが、それが急速に「シャー!」と目を通過してゆく。そしてもういちど遠くを見る。またまた空や雲や家やカラスが見える。「カアカア」とのどかな感じだ。しかし手前は「シャー!」っと忙しい感じだ。2つの「見え」を交互に試してみる。のびのびしている世界と忙しい世界が交互にあらわれる。前者は「世界はゆったりと動き、そしてのびのびしているように見える」。後者は「世界はあまりにも速く、緊張して見える」。どういうことか?車窓から外を見る場合、(ぼくの場合は)際立って特徴的なのは、その二つの視点のどちらかに視線が還元されやすいということだ。しかし「今のぼくにとって、そのどちらが真なのか?のびのびしている世界が真なのか?あるいは忙しく見える世界が真なのか?」と問うことはおろかであり不毛であろう。





ふたつめ。「物体の重さは、それが動いている状態と止まっている状態では、やや違う」。これは先日読んだ『タイムマシンを作ろう!』(ポール・デイヴィス著)が頭に残っていたからなのだが、砂糖や小麦粉の重さを量る計量器の上で(振り子台から吊り下げられた)振り子を振って、その重さを計るという実験において、「動いている振り子の方が動いていない振り子よりもほんの少しだけ重い」のである(43ページ)。この想起が現れたのは、おそらく、むかし科学の入門書で読んだ相対性理論のお話が頭に残っていたからだった。そのお話は「動いている電車の中で跳ねて、着地する」のは、「地上で跳ねて、着地するのとはちょっとちがうんだぞ」というお話であった。では、なにが「ちょっとちがうのか」と言うと、電車の中で跳ねて、着地すると、当たり前だが、跳ねて、着地するまでの時間に、電車は動いているので、着地点がちょっとずれるということであった。これは、特殊相対性理論(1905 アインシュタイン)を説明するにあたってのたとえ話なのだが、だれにでも理解できるだろう。キネティカルなるものの問いを生産するために箱はある。