雨上がり



経験がコトバを生むのであってコトバが経験を生むのではない。「ねえねえ聞いてよ、昨日これこれがあって・・」。コトバは交換されるが、経験そのものは交換されない。昨日の経験をコトバにしたんとたん、昨日の経験はコトバから疎外される。「○○ちゃん、私の話聞いてくれたけど、ホントに分かっているのかなあ?伝わったかなあ?」しかし、その代わりにコトバが交換されたとたんにコトバが経験されている。「○○ちゃんは私の話を聞いてくれた!」(つまり、私のコトバは○○ちゃんによって経験された)。それはコトバが物質化されることだ。話し手、聞き手の相互間において、コトバは「聞かれる」のではなく「触れられる」対象である(コトバによる「触れあい」)。経験そのものはコトバによって交換されることによって、経験の居場所を見つけてしまうが、居場所を見つけてしまったとたん、コトバの体系からはみ出し、経験は<そこ>から孤立する。つまり、経験のコトバを表出することによって経験はコトバから孤立する。孤立した経験はさらなるコトバを求める「○○ちゃん、聞いて、聞いて・・昨日これこれがあってさあ。」「その話はもう5回も聞いたよ。頭おかしいんじゃない?」―――「経験→コトバ→経験→コトバ」。この「唯物論的堂々巡り」が完成するには「経験とそれを語るコトバ」がコトバそのものによって分裂の強制に会う、この局面が必要である。そして、この分裂を一時的に統合するために常に「ワタシ−コトバ」つまり「私語」が用意される。「ワタシ―コトバ」は分裂を一時的に縫合してくれる。パン食い競争のパンに飛びつくように、コトバに飛びつくワタシ。だが、ゴールを目指さねば、パンに飛びついた意味はない。その場で座り込んでパンをもぐもぐ食べている余裕はないのだ。キリスト教のパンは近代的運動会のパン食い競争のパンに変換されている。パンは、子供たちにこう諭す「諸君、食いっぱぐれのないように、しっかりハタラこう!」なぜなら、大人たちが望むのは「たたかい」でもなく「あらそい」でもなく「きそいあい」だからだ。2月になった。