新しさ、古さ


言いたいことはさっさと言ってしまおう。






●「新しさ」とは目にみえるものでありながら目に見えるものではない。新しい商品が出たからといってそれを使いこなすことができない人と当の商品が対峙したとき、その商品はすでに新しさを奪われている(のではないか?)





●一刻一刻未来に送られる、つまり新しさに送られているわたしたちがわたしたちそのものを見ることはできない。だが、それが恋人たちであれ、なんらかのグループであれデモの集団であれ、国民と呼ばれる「想像的対象」であれ、わたしたちはわたしたちとして見られ、知られうることを欲しているのだろう。しかし、そううまくはいかないだろう。




●「未知の領域がある」ないし「いまだ知られざることがある」という事態は端的にすてきなことだと思うのだが、よくもわるくも中途半端に芸術や文化に携わっている人は「これこれこういうものが芸術であり、文化である」という判断の着地点を社会的に与えられたもの(コード、イデオロギー)であるということを知ろうとしないし、また認めようとしない。「なぜ、わたしはそう思うのか」という現象が「わたしは<それ>に<そう>思わされているのだ」という反省には結びつかない。それでは、なぜむすびつかないのか。これを知るためには、そういうことを地道に研究している人から学ぶしかない。そして個々の局面において反省が行われないのは(個々の能力に応じたかたちで)学ぶしかないという限界をわかっていないからだろう。これは新しさや古さという考え方から開放されることだ。しかし「新しさがどれほどのものか」とぼくに問う人がいる。ならば「古さがどれほどのものか」とぼくは問いかえすしかない。「新しさ」に対し傲慢になったとして、ますます「新しさ−古さ」の二元論に足元をすくわれるだけだろう。五月五日。