およそ映画でも絵画でも塗り絵でも彫刻でも、<非ー言語的表象>なるものにおいて、<像そのもの>を<像そのもの>として他者に伝達することはできない。<像>をより完全に伝えるためには、いかなる言語にも頼ることなしに<像>の完全な模倣を他者の目の前で提示しなければならない。それがどんな流通形態であれ、「映画を語る(もちろん言語によってだ)」際にまつわる「当の映画への言語の追い付けなさ」は、この「像と言語の利便性」の根源的不均衡と無関係ではない。「映画を語る」という事に最初から刻まれている不均衡。