アレンジメントは、オリジナル神話を解体する。
同じ『ゴールドベルク変奏曲』でも、ポリーニとグールドとポゴレリチではまったく音の現れ方が違うように、固有の作品ー媒体はアレンジ次第でその輪郭を奪われる。作曲者に対する演奏者という相対性を忘れて聞く事ももちろん可能だし、ゆえに<composed by bach>、バッハ作曲による楽譜という<原ー資料>、つまりオリジナルを聴取することはほとんど不可能な領域に追いやられる。さらにモデルニテの名のもとに、今やアンティークなものの復古主義はすぐさまテクノロジーに逆襲される。フォトショップによる文房具屋の解体。

ケン・イシイエリック・サティをテクノ化した時、高橋アキがサティを弾くということとは無関係であり、この無関係性において、楽曲に付着する垢ー歴史は水面下に追いやられる。歴史を知ろうとなれば、わたしたちは潜水するしかないのだ。そこで、クラブDJは音盤の局所を水面化からチャッキリ釣り上げた魚のように、それを「ネタ」と呼び、「ネタ」は「手をつけられる」ことによって、消費される。回転寿司のBPMターンテーブルBPMが一致する時、ネタは遊戯性を反復することで自らを消尽するだろう。断片の政治学とはつまり、ネタの正確な量的多用と機能性を自らのうちにあってコントロールすることだ。しかし、「ネタの起源はどこか?」現代文化の希薄さの中で、その問い自体が真の起源を隠すだろう。つまり、最初は「構造化された信念」しかなかったのだ。
「構造化」の線状ヴェクトルを「起源の問い」は「点」に変えてしまう。・・・・

SONIC OOZE 2 とは差しあたり「テクノロジーの逆襲」である。爆という接頭語にあって親和的な「笑、睡、発・・・」。OOZEで試みられるのは言わずもがな「音」の領域であり、スクリーンの背後に長らく隠蔽されてきたスピーカーシステムが顔を出しているのを認めたとき、すでに映画がわずかにズレていることを私は認めた。むろん、OOZEとは、快楽原則の彼岸などではなく、無音領域の聴取強化システムであり、ゆえに、爆像領域がそこに宿る。これは本当だ。「映画もとうとう軍事的段階に突入したか?」ただし、この答は宙づりにしておこう。