とくに「これを」というわけではなく、『ロビンソン・クルーソー』75分をあからさまに淀川長治がセレクトしたことをそのパッケージにおいて主張するヴィデオ・カセットで見る。「ダグラス・フェアバンクス イン・・」と冒頭画面にデカデカとクレジットされ、「いかにも、これは俳優至上主義的映画だろう」と直感したものの、その映画『ロビンソン・クルーソー』にはダグラス・フェアバンクスのクローズアップはひとつもでてこないし、むしろ、動物のクローズ・アップの方が量的に多いことから、「人間がお話を超越するのではなく、お話の中の人間に留まっている」という謙虚な感じを与えられた。この映画にはカニや虎や鳥や猿やヤギなど動物がいっぱいでてくる。そして監督さんは人間を演出するよりも、むしろ動物の演出を楽しんでいるのではないかとさえ思える。1932年、まだ冒険潭が盛んに撮影されていた(人類には夢があった?)頃のアメリカ映画だが、全編を通じて描かれるいかにもイージーでお気楽でゴキゲンなるロビンソンの生活ぶりや、「緊張感を観客に与えよう」などと露にも狙っていない首狩り族との戦いの平板なシーンなど、切り返しショットはあるものの、「心理の遠近法」をまったく前提していないフレームワークやモンタージュに興味をそそられた。この頃には今日いわれるパンニング(おそらく汎神論の汎はPANNINGのPANの当て字だろう・・)は発見されていないのか?とはいえ、上から下にナメる垂直のクレーンショットを一か所発見した。ロビンソンが島の材木などを集め、自前でつくったいろんな装置で、動物の力を借りながら、自邸を建ておわり、その自邸を一気に(劇場の観客の目の前で)お披露目するための撮影演出なのだろう。そしてその自邸の二階のバルコニーのような所に島にたまたま落ちていた亜鉛板を使って造ったロビンソンお手製のラジオがある。ココナッツだかヤシの実だかの殻を半分に割ってつくったラジオのつまみ(チューニングする部位)を猿が勝手に触って遊び、ロビンソンが「触るんじゃない!」と怒るシーンが印象的だった。なぜならそのツマミにはユルユルに歪んだ線であれ、ちゃんと目盛りが書かれていたからだ。ちなみに原作はダニエル・デフォー(1659〜1731)であり、当時、ラジオ放送局があったなどと到底思えない。