何かを信じている限り、信者でいることから逃れらない。だが、多くの場合、その「何か」がはっきりとはわからない。しかしわからないからといって彼ら、彼女らが信者をやめることはない。信仰はつづくだろう。何を信じているかがわからない限りにおいて。偶然も作用する。賢者は現れ、・・・「君は信者ではない。君はホモ・ロゴスであり、理性の人だ。」・・・と君に伝える。賢者は立ち去る。「信と理解」は「水と油」だ。相容れない。君は悟る。信から剥離する理解こそは信を放棄する最後の飛躍である、とも。最後に?最後に残るのは狂信だろう。絶対的自由への狂信、そして不自由という名の荒野。だが、そこでも「理」が待ち構えているとすれば??われらの言語圏。信者の咽喉仏。
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