読書ノート 3



■ 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』


(少々辛辣に言う。昨今、デジカメのシャッターを切るだけでフォトグラファー気取りになれる者が吐いて捨てるほどいる。写真は確実に「必要」以上の蔓延を極めている。そんな「凡庸な風景」の中で、現在なおもって写真を撮り続ける中平卓馬(1938〜)の思考と実践は貴重である。嫌みで言うわけではないが、本来写真にさして関心ないにもかかわらず、写真を撮るのが「手易い」という理由だけで撮っている人、写真を撮るのが「たんに好きな人」にとって、この書はまさに「豚に真珠」「猫に小判」なので読まない方がいいだろう。その方が君のためだ。したがって以下のこの文章も読む必要はない。)


1970年代は「議論する」ということがまだ信じられていた。「学生運動」と「弁証法」は切り離せないもので、それらは建前上「国家権力」(なんだか古くさい言葉だ)に対抗するべきものとしてあった。「弁証法」はさらなる「弁証法」を呼び込み、たとえそれらが(大島渚が『日本の夜と霧』/1960/で描いているような)「風景としての議論」だったとしても、現在よりも確実に「言葉への信」が多様に展開されていたといえるだろう。現在ではどうか。「弁証法」はいっこうに流行していないようだが、それにかわるのは、おそらく日本経済に貢献する功利主義的な「プレゼンテーション」やその下位構造にある「自己アピール」などであろう。・・・さて、中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』を通読して思ったのは、この書は著者の「言葉に対する信」の産物ではなく、その言葉の向こう側にあるもの=「X」への信に賭けている、その苛烈な態度表明の産物、「ホモ・ロゴス」の貫徹とも言うべきエティカの産物だ、ということにつきる。それはあらかじめ「Aはとは何か?」という問いを立てておき、「Aについて考え、ついにAについて分かったからAについて書く」という退屈な論理とは真逆にある。ヴェクトルは、つまり創造(彼の場合は一枚の写真を撮ること)に向かっているのだが、「言っても言っても言い切れないことを見いだすために言う」という「言い切れなさ」の発露のために言語(言語による認識)を蕩尽するという態度が、些末な功利主義からはほど遠いことを予め確認しておこう。・・・この書は3章を34の論考に分割してあり、その殆どに日付が付されてある(日付、これはとても重要なことだ)。そしてどのページを開いても、著者の語の真の意味でスマートかつブリリアントな思考が炸裂している。写真論はもちろんのこと、中平の思考は現代美術、映画、広告分析にまで及び、すべて少しも色褪せていない。たまたま半年前に国立近代美術館で三島由紀夫の愚鈍な肉体を編集した『薔薇刑』で知られる細谷英公の写真を見たが、すべてくだらない(被写体もくだらないが構図も演出もくだらない)写真で、こういう写真を見ると中平卓馬の写真は、まだまだ不当に無視されているという若干の苛立ちさえ覚える。・・・ここではとりわけ第三章「今日、見るとは何か」に所収されている広告ポスターのイメージ分析「ディスカバージャパン・・・とらわれの旅の意味」がことのほか面白かったので触れておく。たしか、そのCMで山口百恵の「いい日旅立ち」が流れていただろうか、旧JR(つまり、国鉄)の「ディスカバージャパン」のTVCMはおぼろげながら覚えている。幼少期、極度の旅行嫌いだった(今でもさして好きではない)僕は、そのCMに対してなんの感慨ももたなかったが、昨今のJRのPR体制で、吉永小百合などが、無害な笑顔を振りまいているのポスターに遭遇したりすると、決していい気分にはなれない。どうしてだろうか。あらゆる広告は、その内容において「押しつけがましい」だろうし、むしろ広告があり、「見たくもないのに見えてしまう」という次点で「すでに押しつけがましい」。吉永小百合の「さあ、行きましょうっ!」と言わんばかりの「勧誘笑顔」がどうにもこうにも鬱陶しい。この論考によると、「ディスカバージャパン」は、1960年代末より経営不振に陥っていた国鉄の打開策として、<電通>が発案し、国鉄に提供したキャンペーンである。しかし、その電通のアイデアですら、なんらオリジナルなものではない、いわゆる<複製>であることに注意を促しておきたい(さらに、この<複製性>それ自体は<知覚不可能>であることにも注意を促しておきたい)。具体的には1960年中期を境にするドル流出に悩むアメリカ政府が、海外旅行によるドルのこれ以上の流出を防ぐために案出した<ディスカバーアメリカ>をそのモデルにしているのだ。この意味でも、日本経済はアメリカ経済を後追いしていたのだが、さらに付け加えておきたいのは次のことである。ポスターイメージそれ自体が<都市と田舎>という落差を利用しており、イメージを知覚する者をして<たんなる田舎へ赴くことが倒錯的に「美しい日本の私」(川端康成)を発見できる>、このことが視覚的に吹聴され、<美学的イデオロギー操作>をもって<風景を消費>させる力能をイメージそれ自体が備えているということである。中平卓馬はもちろん写真家であるのだから<風景を消費>させる具体的なメディウムとして<写真撮影>という具体的な操作、いいかえるなら<真を写す>という<アリバイ>(「ねえねえ見て見て、私○○に行ってきたの」)を実現させる、そのためだけに「財布をすり減らす」愚行をおかしてはならない、と親切にも警告を発しているのである。次に重要なのは「旅行」を良きものとして捉えることが歴史的に形成されたことである。「旅行即善」。この透明な自動律もまた「階級落差」に端を発する。(中平卓馬がすごいと思うのはこういうことをちゃんと遡行的に指摘していることであり、徹頭徹尾「認識」の上で「写真を撮っている」ということである。)孫引きになるが引用しておく。




いわゆるトゥーリスムが成立するのはブルジョア革命によってすくなくとも意識の上においては個人の自由という理念が生まれ、その理念の実現であったはずのブルジョア社会がしかもなお非自由をしか保証しなかった19世紀中頃のヨーロッパであると指摘している。「ついに自由は、空間的には文明から遠く離れた自然のイメージのなかに、時間的には過去の歴史像、遺跡とフォークロアになかに凝固した」(エンツェルスベルガー『旅行の理論』)






いわゆる「理想と現実のギャップ」、ここでは「個人の自由と非自由」の落差を埋めるためにトゥーリスムが成立した(日常労働からかりそめにも開放されたい、旅行にでも行くか、という原型の成立)という指摘であるが、重要なのは、空間軸(より遠くへ)と時間軸(より過去へ)を最大限に引き延ばすことを19世紀中頃の時点で(旅行会社が?)試行していた、ということである(宇宙旅行がトゥーリスムに内属化されると「より過去へ」のヴェクトルがますます強化されるに違いない、パノラマを旅行の縮小版として捉えると「恐竜展」の安易な<シュミラークルースペクタル>などはその一端なのではないか)。・・・なぜ、中平卓馬か?もっとも僕は奥村昭夫の訳した他ならぬゴダールの『彼女について私が知っている2、3の事柄』の採録シナリオ(『ゴダールの全体像』所収)を20代半ばに読み耽り、「現代生活の分析に情熱を傾けること」(ゴダール)の面白さを知った。中平卓馬への関心もこの延長にある。・・・そして、20世紀を代表する哲学ユニット、ドゥルーズガタリの言う「ポップ・アナリーズ」(ポップ分析)を彼らの大著『アンチ・オイディプス』出版と同時期に(つまり1972年あたりに)実現させていた最良の果実としてこの書を即座に捉えなおし、再び2009年の現在、CMや広告物をもう一度<映像ー思考>の訓練のために批評的に分析したいという欲望を抱かせるに足る、そんな刺激的な論考だった。これ以上僕が云々することは控えたい。興味ある者はただちに『なぜ、植物図鑑か』を手に取ってもらいたい。ハードカヴァー、文庫ともどもに素晴らしい装丁だ。(2009‐10‐01)