編集ノート 1




■ 編集ノート 1 
 




編集というコンセプトは次の点において重要である。





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「無関係な2つもの」と「関係のある2つもの」は、「編集」それ自体が媒介している。これは「無関係性」(私とあなたは関係ない)と「関係性」(私とあなたは関係ある)が「同時的現象」として保証するしかない地平において認識されるべきである。「Aであると同時に、B」この同時性を保証するのは、超越論的自己(理性によってとらえられる自己をさらなる理性によって再批判-吟味できる主体)においてである。無関係性と関係性が同時成立していること、この同時成立(同期性/非−同期性の同時成立)を「編集という操作」は扱っている。





映画制作において、ひとつの所与の映像(a given image)は、次の映像(next image)を誘発する。なぜか。編集という「操作可能性」こそが所与の条件(given condition)として了解されているからである。したがって、ある映像(a image)はその起源において<a given montage image>、とみなされうる。しかし、ここで注意しなければならない。ある映像(a image)とは、「所与としての編集という条件」(montage as given condition)において事後的に見いだされたものでしかないということである。(ないし、事後的に積極的に見いだされたものである)。





編集された映画(montaged movie)における、ひとつの映像(one image)。しかし、それは<itself・・それ自体において>「one image」として見なされうるべきではない。なぜなら、編集された映画において個々の「image」とは、<すでに/つねに>次の視聴覚的運動性において認識されるほかないからである。その運動性とは<one image → image(s) → a image → one image>であり、その回帰的循環であり、またはその外部(excess−過剰性としての外部)を保証するものである。この意味で「ひとつの映像」とはすでにして「複数のimageが折り畳まれたひとつの映像」と認識されるべきである。(ただちに結論づけておくが)、ならば次の問いと答えこそが編集の客体的重要性・・エッセンスを指摘していると言うべきである。





●Q
(すでに/つねに条件としてある)編集という操作可能性は、ある映像(a image)とひとつの映像(one image)の差異を明瞭にすると同時に、複数の像image(s) からの「無限遡行」(時間に対して可逆的な)を促すことと同義なのだろうか。




●A
もちろんである。なぜなら1で述べた「無関係性と関係性の同時成立」(同期性/非−同期性の同時成立)を条件づけている「編集という操作」こそが、他でもない「この世界」の「折衝性−歴史」を保証すると同時に「この世界」の「一回性−現在」を保証しているからである。「われわれは<この世界>と関係している」という命題と「われわれは<この世界>とは無関係である」という命題は明らかに矛盾している。しかし、この矛盾という「視差を確定する場所」から無限遡行できる次元をそれとして保証するのが「編集」なのである。編集が可能にするのは、この無限遡行であり、その強度である。なぜなら映画制作における「編集」とは「編集された遡行的時間」を生むのであって、「無編集的持続時間」を生むものではないからである。当然である。(2010−05-30)