建築ノート 6



■ 建築ノート 6







ところで、主に戦中戦後に活躍した美学者、中井正一は「壁」(1932)というエッセイで次のようにいっている。




_________________________________



機械と集団建築が生活の大衆的単位となりつつある時、壁とは、今、われわれにとってはたして何を意味せんとしつつあるか。壁が建築の支柱的性格をもち、窓がそれにたいして展望、採光、通風の機能をもっていたことは今やすでに硬質ガラスの出現によってその函数表をあらためることを要求されはじめる。極限にまでひろげられたる函数表においては、すでにすべての壁は窓となりつつある。硬質ガラスは窓であると同時に支柱としての壁をも意味することとなる。建築はすでにガラスへ向かってその視点の方向を向けつつある。(『中井正一全集 3 現代芸術の空間』美術出版社 p,296)


_________________________________





さきに私は「建築への無関心性」を「壁が壁であること」、つまりあまりにもありふれていて、むしろ、そうであるがゆえに気付かない何かに関わりのあるものだと指摘した。1932年、5・15事件や上海事変が起こった時代にあって、中井正一は「壁とは、今、われわれにとってはたして何を意味せんとしつつあるか。」という問いから、壁についてのエッセイを書く。この態度は、貴重である。なぜなら、ありふれたものが、なぜ<そのように>ありふれているかを考えることは、マルクスが「貨幣」というありふれたものを彼なりの頭脳で<分析−考察>し、その上で「コミュニズム」という理念をつくりあげた態度と通底しているからである。それは結果的にバウハウスの理念へと接続できるものである。ところで、私がこのエッセイに驚かされたのは、中井正一が上記の引用文につづいて、次のように「壁」を再観察しているからだった。



_________________________________




近代人がレモネードをすすりながらガラス窓の平面を透して、往来する街路をながめている時、そこに繰り広げられる光の画布は近代人のもつ一つの「壁画」でなければならない。動く壁画であり、みずから展開するかぎりなき絵巻であり、時の中に決して再び切り返すことのなき走馬灯でもある。集団が集団みずからを顧み覗き込むために彼らはガラスをもったといえるだろう。われわれはあの雨のハラハラ降って小さな音をたてているガラス戸をのみいっているのではない、。街頭を強く彎曲している巨大な建築素材としてのガラスに呼びかけているのである。巌壁のように立ち上がっているガラスの壁にものをいいかけているのである。それは見るひとつの性格である。かくて、技術が、その意味におけるKunstがみずからの歴史的必然被担性を透して、見る自由とみずからの美を見いだすことの中に、芸術の意味がある。(同上)


_________________________________




中井正一はここで、ガラス窓を「壁のアナロジカルな物質」と捉え、それを「壁画」と関係づけている。たしかに、ガラス窓を透かして見る「光景」とは、「光という物質」なしにはありえない。そして、中井正一が言う「ガラス窓=壁=壁画=光の画布」という観念連合は、実際の「ありふれた光景」を抽象的に考える契機を与えてくれる。このテキストはある種の近代都市論としても読めるだろう。しかし、ここで注意を促しておこう。「ガラス窓」とは、<「個人」対「光景」>という対立的な現象をもたらすのものではない。むしろ<壁−ガラス窓をとおして得られる光景そのもの>は、「集団におよぼす影響力がある」と指摘していることである。この場合、個人は集団に先立つのではない。集団こそが個人に先立っている。「ガラス窓」にはそれ固有の機能を離れた上位概念的な存在論的ファクターがある、ということだ。






しかし、ただちに付記しておくが、この「ガラスの集団的装置性」をして、「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)をもたらすという意味での「集団性」と関係づけてはならない。(「集団」と「共同体」は厳密に区別されてしかるべきである)。そうではなく、実際に視線を分断/遮断し、「見たもの」が「見る主体の内側」に回収されるしかない「壁」という<物質=メディウム>の強制力に対する「想像力」に関係づけるべきなのだといってよい。むしろ、文字とおり「壁」とはリテラルに言えば「孤絶」をもたらすものだった。われわれの隣人との「孤絶」をもたらし、また、歴史的にはちょうどベルリンの壁が「社会主義」と「資本主義」の「孤絶」をもたらしていたように。(2010−05−26)






※ 今回をもって、とりあえずの「建築ノート」第1部は完結する。このノートは「建築への無関心性」から出発し、結果「壁」への関心を注いだ中井正一の引用で終結した。私はこんなに長く書くつもりはなかった。だが、「書く」作業を通して、得られる知見があることをあらためて再確認した次第である。・・ちなみに中井正一国立国会図書館の副館長をつとめていた<美学者−記号論者−映画理論家−運動家−エッセイスト>である。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%AD%A3%E4%B8%80を参照せよ。)