つながる、とか



■つながる、とか





トンカツを作る場合、まず最終的にトンカツの形状にしなければ、それはトンカツとはいえない。液状のもの、鉄のように硬いもの、紙のようにぺらぺらなものはトンカツとはいえない。




トン肉と、衣(パン粉)をつなぐために使うのはとじ卵である。だいたいのトン肉には下味がついているだろうが、下味を活かすためにも、どうやら卵がふさわしいらしい。




トンカツを作ったことはない。




ここで、つなぐということを考えてみたいが、それは分離しているものが分離した状態ではない状態にさせるということではないだろうか。つながるということは、表象としてはたがいに分離した2がまとまりのある1になること、に過ぎないが、1が2でありたいがためにつながりたい、というのは1の側の勝手な幻想ではないだろうか。




そもそも1日が24時間であったり、24時間が、12×2で午前と午後にわけられたりしていることによって、なんとなくつながっているのが、このいつものありふれた世界であるが、そういう感覚は一人でいる場合のほうが起こりやすい。グリニッジ天文台がいつも孤立していて、その仲間が誰一人としていない、そんなふうに見えるのも、(おそらくニュートン以降に)時間それ自体がつねに量化されて、量として捉えることにまず重きがおかれ、質的な時間がまず量的な時間からしかえ生まれえないだろう、ということにも関係ありそうだ。グリニッジが孤独に数える時間それ自体は量的でも質的でもない。





ところで、つながるもの、ではなく、つながらすもの、ということでいえば、もっとも強力なのは天体の運動であり、次に貨幣経済ではないだろうか。このふたつさえあれば時間が時間として確定でき、貨幣が貨幣として機能するのではないだろうか。(なので、グリニッジ時間基準はべつにグリニッジでなくとも、よいということになる。)






等価交換の場面でみられるのは450円のハンドクリームにたいして、450円を支払うということであり、そういう決め事があって、資本経済がなりたっているとするのならば、450円のハンドクリームを購入することは、今の時間は9時52分だ、ということを信じている、(というよりも、信じていることを信じられないくらいに信じきっているので、かえって、信じることにきづくことができない)のと、かなりの近似位相に位置づけられるのではないだろうか。





その物体にはたしかに450円の価値はあるだろう、というのは買い手が持つ勝手な幻想である。そもそも450円の価値が450円の価値として確定されていようがいまいが、そんなことよりも、450円の価値というは、永遠に確定できないからこそ、値段というものはころころ変わるのであり、その変貌のなかで、450円とかろうじて確定されているに過ぎない。いま、ここ、が保証されるのは、いまではないとき、ここではなにどこか、において、相対的に決定されているに過ぎない。





等価交換には、主述関係があってはじめてなりたつ「be動詞的確定記述・・・●●は●●である。」のような息苦しさがある。「450円のハンドクリームは450円でしか買うことができません。」という退屈と内閉。それが「1円足りないと買うことができないし、1円多く払っても、それを法的にその行為を認めることができない」ということである。





手を潤したい、という欲求がまず先行しているのだとしても、それは天体の運動が決定づけた、所与の自然がもたらした結果である。それとは無関係にも、貨幣経済が動いているとすれば、どのようにして、450円のハンドクリームを451円で購入することができるのだろうか。その1円は関係性の1円なのか、無関係性の1円なのか。つながる、は、どのようにしてつながっているのか。