「アニマル京子は東山千栄子と似ている。」だが、この記述は間違っている。「東山千栄子がアニマル京子に似ているのであって、アニマル京子が東山千栄子に似ているのではない。」なぜか?それは「見た順番」と関係がある。
昨晩、就寝前にフトンにもぐりながら「今晩は映画の勉強をさせていただこう。」とジェイムズ・モナコ氏によって書かれた『映画の教科書』を枕上にセットし、パラパラとページをめくっていると、スタティックな笠智衆と並んだスタティックな東山千栄子がその画面のおおよそを占める『東京物語』のスチール写真が掲載されていたのだ。そこで、東山千栄子の遠くを眺めやる憂いたっぷりの佇まいを注視しているうちに、「これは誰かに似ているぞ。」と疑念を持ったのものの、しかし、「誰でもいいや。」と、「メトミニー」とか「トロープ」とかの横文字単語がいっぱい出て来るあたりの文章を拾い読み進めていると「東山千栄子はアニマル京子に似ている」事が唐突に発覚したのだ。だから、僕の頭の中で占めた2つの像の主格は、物質的にも順番的にも東山千栄子にあるのであって、アニマル京子にあるのではない。たまたまオリンピックのダイジェスト版を垂れ流ししつつ、その熱狂化を極めたアニマル親子報道を知覚していた際は「アニマル京子は誰かに似ている」などとはさして思いいたらなかったからである。しかし、東山千栄子の顔の像とは関係なくとも、アニマル京子の顔の像を知覚し、その像を潜在的にひきづっていた事は確かなのだろう。