特にこれが見たいという訳ではなく、『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975)をシネマスコープサイズからヴィスタサイズにトリミングされたヴィデオカセットで見る。単体の『男はつらいよ』ではなく、シリーズの『男はつらいよ』の事を考えるたびに次のトリュフォーの言葉を思い出す。「すべてのアメリカ映画は似通っているから、わたしたちはアメリカ映画を愛したのだ。だが、アメリカ映画がいろんなふうに変化するようになってからは、わたしたちはもはやアメリカ映画を愛さなくなった。」前半の部分「似通っているから愛した」は、『男はつらいよ』シリーズを好んで見続けた人にとってもぴったりあてはまるのではないだろうか。むろん、そもそも「シリーズ」という発想自体が「どれもこれも似通っている」事を前提しているには違いない。つまり、トリュフオーの言葉に準えて言えば「『男はつらいよ』はどれもこれも似通っていたがゆえに、われわれは『男はつらいよ』を愛したのだ。」というお客さんがたくさんいるに違いない。この徹底した「相似系列」の志向が、徹底した「利益」を生むことを映画会社には分かっていたのだろうし、又、お客さんも、『男がつらいよ』がシリーズという数学的な相似系列をまっとうしていることを自明視し、それが実現されていることを確認済みの上で、単体の作品ごとに「小さな差異」を発見し、喜びを見いだすことができたのであろう。

少々思い出話めいて恐縮だが、かつて阪急高槻駅から徒歩10分くらいの映画館で映写技師のアルバイトをしていた僕は、「日本映画で一番お客さんを入れているのは『ドラえもん』と『男はつらいよ』である」との認識を得た。他の日本映画はその評価上、どんなにアカデミックなものや美学趣味的なものが導入されていても、実際に強力な利益を上げていたのは『ドラえもん』や『男はつらいよ』であって『ラブレター』や『幻の光』ではなかったのだ。その事を映画館という現場で知った僕は、仮に「日本映画云々・・・」と批評したとしても、そこに「『男はつらいよ』と『ドラえもん』が対象化されていなければダメなのではないか?」とさえ思うようになった。
そういえば、昔のノートにこんなことを書いていたことを思い出した。

「マドンナ」という変換の規則や、「葛飾柴又」をゼロ記号とするロケーションのプログラミングなど、『男はつらいよ』シリーズに狭義の構造主義を認める事はたやすいだろう。

もうひとつ、最近目を通したジャン=ミシェル・フロドンの『映画と国民国家』からの引用。「映画は言語(ランガージュ)である」(アンドレ・バザン)ーーーとは言え、映画は国語(ラング)ではない。映画は国語の構造を再現せず、それに依存もしない限りにおいてこそ映画なのだ。