『チキチキ・バンバン』

『チキチキバンバン』の歌は知っていたが映画は見ていなかったので、ヴィデオ・カセットで『チキチキバンバン』(1968)を見る。本題は『chitty chitty bang bang』なので『チッティーチッティーバンバン』だろうが、どうして「チッティー」が「チキ」となったのか?歌のシーンでもちゃんと「チティチティ」と発音しているのに。「チキ」と言うだけで、マンガ映画の『チキチキマシン猛レース』とごっちゃになっていたのだろうか、以前からカーレースの映画だとばかり思いこんでいたが、そうではなかった。カーレースが出て来るのは冒頭のタイトルバックのみであり、結局このカーレースシーンは物語になんの関係もないことが最後に分かる。ところで、この映画の物語のほとんどを占めるのは空想シーンであるが、その空想する主体が誰なのかが判然としないのが気にかかった。海岸の浜辺でかわいい坊やが新聞紙を丸めて遠くを覗いているとき、急に「海賊がやってきた〜!」と叫び、画面には海賊船の到来がうつり、主人公のおっさん(坊やの父親)が「そうさ!やつらはこの世でもっとも腹黒い悪の連中、ナントカカントカだ!」とやや力んだ調子で答える。おそらくここから、空想シーンが始まるのだが、子供が見た幻覚・・海賊を、何も見ていないおっさん(父親)がなぜか共有してしまい、勝手に空想が暴走し、空想が1時間ばかり続く。ここで注意すべきなのは、空想の兆候が描かれる浜辺に居合わせいていたのは、発明家のおっさんとその息子と娘、そして、長い長い空想シーンを経て、最後に発明家のおっさんと結ばれる(具体的にはキスするだけでエッチはない)巨大お菓子工場の社長令嬢の4人であり、空想の中味(内容)においてその4人は「これでもか」と均等に登場しているのだから、「このシーンは・・の空想です」という主述関係を確定できるような構造(形式)をあらかじめ見る側に提示していないという事だ。全員一致の同時多発的空想?(しかし、複数人による同一内容の空想の同時多発は論理的にも経験的にも不可能である)もし何かが明らかにされるとすれば、空想の所有格を明らかにしないこと(あいまいにすること)によって、幻覚の主体を事後的に坊やにフレーミングする、このことだけである。いわば「幻覚から空想へ」という手続き上で、なぜ、坊やの幻覚がおっさんに転移してしまったのかが、まったく問いに付されぬまま、「幻覚を見たのは坊やである」という映像的事実がだけが長い長い空想シーンを通じてあきらかにされるのだ。しかし、「幻覚の主体は坊やにある。だが、空想の主体は謎である。」と指摘したところで、この映画をなんなく楽しんだ者にはピンとこないかもしれない。

かったるいミュージカル・シーンを除いては、
いずれにしても傑作である。
特に前半15分くらいの発明家のおっさんの住まい(発明屋敷)の内部装置には目をみはるものがある。朝食を造る装置において、こんがりと焼けたソーセージがウイーンと唸る機械の腕によって自動的にコロンと皿に盛られ、間髪入れず、ウイーンと唸る機械の腕が生卵を割り、親子3人で仲良く、そしてなんの不自然さもなく単純な朝食を食べるシーンに、「映画的」と言わずにはおれない妙な感動を覚えた。「そんなことくらい自分でやれよ。」といいたくなるが、すべておっさんの発明のためだ。仕方あるまい。ちなみに『チキチキ・バン』の原作はイアン・フレミングである。