『ストレート・ノー・チェイサー』には強度があり、『ストップ・メイキング・センス』には諧謔があった。『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』には享楽があり、『ザ・ウォール』には抵抗があった。・・・・シアトリカリティーの連発的現前に失笑しながらもCS21チャンネルで垂れ流しされているミュージック・ヴィデオ・クリップにしばし見入っていた。みんな可笑しい程に「それふう」だ。ただ「それふう」が圧倒的に享楽を欠いているのは、「それふう」が「苦痛のシアトリカリティー」である所以であろう。産業資本に抑圧されていることを隠蔽することによってのみ、当の抑圧から逃れることができないという意味で圧倒的に消極的な「マス目に丹念に文字を書き込まれた従者の顔」がこれでもかと続く。
先日、赤坂見附(あかさかみつけ)という建築的にかっこいいジャンクションの近くに
ある国際交流センターで見た豊島重之率いる「モレキュラーシアター」の現代演劇は「文語的」に対して「口語的」であると言えばあまりにも適当に聞こえるかもしれないが、いわば口語的演劇とは差異(「それふう」からの距離)を問題にしているのに対し、文語的演劇は同一性(「それふう」そのもの)を自明としている。ここにはミュージック・ビデオ・クリップを「あたりまえに聞く」と言う聴取の力能を触発させる場所を奪い「それふうに聞く」という強制力を意識させまいとすることによって「それふうに聞くしかない」といったシニシズムに支持された「聴取のシステム」しかない。パフォーマティヴと言うよりも、やはりシアトリカルな表情やアクションの古典的コード進行にちょっとした歪みや傷さえ発見できない。「それふう」は潔癖で汚れがないほどに「文語的人間性」を成就し、恐ろしい程に「演劇の文法」を死守する。「ポップ=古典的演劇はこんなところに住み着いていたか」とまで思わせるのに足りるほど、ミュージック・ヴィデオ・クリップとは「それふう=苦痛のシアトリカリティー」の避難所であり、聖地であったのだ。保田輿重郎の「日本の橋」を1000倍に薄めた日本浪漫派第5世代あたりの屈託のない少年少女たちが「それふうに」髪をなびかせ、「それふうの」顔を一生懸命造らされ、「それふう」に「それふうの」歌を歌う。失笑するしかない。