勉強になった。

とりわけ大阪梅田のLOFT地下にあったテアトルは客席フロアの傾斜角度が十全に計算されたものだった。要するに客席数とスクリーンの大きさとのバランスを計算した上で的確にスロープがとられている。そして、ここシネ・セゾン渋谷もまた、肩までではなく、頭部までを含めてその身をゆったりと背もたれに預けられるやわらかくも固くもない椅子で、前客の頭の動きに特にいらだつ事もなく、スクリーンを万全に注視できるよう、程よい傾斜がとられているのだった。セゾン系の映画館は設備が的確だ。
7月31日の深夜から翌朝にかけてフレームの現在を考えるために、たむらまさき青山真治・安井豊の討議を1時間弱聴講したあと、樋口泰人のセレクトによるガレルを2本、青山真治を1本、ゴダールを1本。まず会場入り口で配布された2004年6月号の『カイエ・デュ・シネマ』に掲載された新作の「われわれの音楽」をカンヌに出品したばかりのジャン・リュック=ゴダールによる「フォーマット」と題された図入りテキストをもとに討議がすすめられる。ジェイムズ・モナコの『映画の教科書』(フィルムアート社)における指摘、「テレビ=スタンダード・サイズの勃興によってシネマ=シネマ・スコープという差異化が計られた」を、たむらまさきが最指摘し、「それが構造化というもんだ」と一人合点したものの、ゴダールによると映画フレームを遡及的に思考すれば、いったん「ステンドグラス=神話」の関係項に落ち着くわけで、ゆえにフレームの構造化の問題系も「ステンドグラス」にまでさかのぼると「フレームの要請」による「信仰の要請」ととらえなければならなくなる。唯物論的見地から言うと、「フレームがあるから信仰がある」のであって「信仰があるからフレームがある」のではない。この順序を取り違えてはならない。そして「信仰=暗闇(で)の跳躍」において、信仰する者は文字通り、「目をつむる=暗闇化する」事によってその対象=像の知覚をカッコに入れざるをえない事に注意しなければならない。ゴダールは図案のステンドグラスのフレームの脇に「ritual」と記入している。「リチュアル」、英語に翻すと「儀式」である。儀式(ステンドグラス)と棺桶(シネマスコープ)の間でしかシネマやテレビが生息するしかない比喩をフレームの所与の宿命としてゴダールは指摘する。しかし、面白いのはゴダールがこのフレームの間主観性に一種のパラドックスを導入していることである。どういうことか?シネマスコープにおける「棺桶」(埋葬=死)という比喩とステンドグラスにおける「神話」(復活)という比喩が直線的なものではなく、循環的なものである。このことだ。ゴダールが強調するのはこの循環の中にこそシネマやテレビは生きるべきだという事である。「人は棺桶があるから死ぬのではなく、たんに死ぬ。」そして一方で強調しているのはこの無根拠性であり、しかしその後のステンドグラスの儀式において礼拝が始まる、この循環性の無根拠性である。(ドメスティックには垂直の遺影が祭壇に再現前し、御盆になれば垂直の墓が再々現前し、われわれは執拗に目をつむって拝みつづける)。いずれ儀式に参加した者も死に絶え、再び儀式が始まる。寝ることと起きること、起きてなお、眠りこけ、寝ながらも夢を見る。ただし、ノン・フレームで。このノン・フレーム性は主体のセルフ・ドリフトを促すが、セルフ・ドリフトの自覚こそが映画をさらに自覚的に見る事を準備させる。前頭葉はフレームではない。勉強になった。