6/18 阿佐ヶ谷南 MoguMogu 「砂漠の小舟」上映+狩俣道夫ソロライブ 終了

ある場所に

二、三人集まってくる

酒を飲んでいてもそうでなくともよいが、

話しつづけていると 興にのってきて

誰かが歌い出す

それに合わせて誰かがリズムをとりだす

といったことは ありそうなことだ

 

民族や文化を問わず

人間が集まるということは

その前提に

話す コミュケーションするという ことがあり

その延長上には 言い争いがあり、痴話喧嘩があり、

殴り合いがあり、その規模が国家レベルになると戦争が起こる。

 

一方で

笑いだす、歌い出す、誰かが芝居をしだす。

踊る、狂い出す、ということもあるだろう。

享楽に拍車をかけて無に至る。

 

いずれにしても

言葉による意味伝達に飽きて

場はそれ以上の展開を持つ

人間の本性

このように言葉による意味伝達に支えられながらも

それを拒絶するなにか

裏切るなにか

が用意されているし、それを好んで行う


アリストテレスやその他哲学者の世界解明作業は

当時の詩や音楽、演劇を含むものであり

人間がたんに生活する以上のこと、のちに文化と呼ばれるようなこと

の解明を

含んでいる


文化

中世、近世あたりまでは貴族や高級官僚の暇つぶしの道具だったにせよ

近代、特に戦後に近代国家がたどって来た道は

民衆、大衆による創造や芸術制作を資本主義の中に

取り込みながら進んできた、と言う過程があり

それは無視できない

 

狩俣道夫の奏でる即興曲を聞いたあと、

音楽のための音楽(音楽至上主義)ではなく、人が集まり、集まるがゆえに生成される場所、その場で行なわれる即興的な行為に近いなにか、それがたまたま音楽であったという風景を想起する 空が見え、木の葉が揺らぎ、鳥がさえずり、水が流れ、気温も湿度も変化する。

 

口琴もフルートもどちらかといえばポータブルな楽器であり、軽量化の果てにできあがった楽器と言えなくもない

 

誰かがいついつどこそこで

演奏する という情報が流れてきて

ダムの放流水にように

毎日大量に押し寄せてくる

 

その量に距離を置かないかぎり

ほんとうに聴きたい音が

わからなくなってしまう

 

やらないより やるほうがいい

 

表現が自由でなかった頃

なんらかの規制で

演奏できなかった頃は

表現は貴重だった

 

だが東京の現在

表現は貴重かどうかと言われれば

そう断言できるのかどうか

わからない

 

少なくとも

狩俣道夫の演奏は貴重だと思えた

巨大な歴史のなかで

音を捉えている

と思えた

 

細かい分析はできないが

真の演奏のミニマリズムとはこういうことではないか

 

リズムの要素、声の要素、

旋律の要素も 1つの身でやっていけるということ

 

中国音楽専門のレコードショップに

備えつけられたちょっとした

ライブスペース

 

簡易的に作られたステージのなかが

空洞だったためか

足踏みのリズムの低音が要素としてハッキリとしていたこと

この偶然的 即興的な

仕掛けもまた

演奏者はモノにしていたと思う

 

(6月末 敬称略)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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