★リンダ逆上 9

リンダ逆上、原因究明のためのパズル/パルス9


「もちろん、君も知っているとおり、アルバイトってのは、ドイツ語だ。綴りはA・L・B・E・I・Tとなる。だがしかし、・・・」「だがしかし?」「フリーとは何語だ?」「F・R・E・E・ですかね。」「そうだ。」「そりゃ、もちろん英語でしょ。」「そうだ。じゃあ、フリーターってのは何語だ?」「スペルは?」「もちろんフ・リ・ー・タ・ー・だ。」「そりゃ、日本語ですかね。」「そう!その通り!しかし、注意しなければならないのは・・・そいつは日本語であるという以上に、ドイツ語でも英語でもないってことだ。」「まったくもってっ!」・・・ベビー・ルゥが給湯室から戻ってきたとき、二人はこんな会話をしていた。・・・ここは地上43階。さんさんとガラス窓から太陽光が降り注ぐ丸の内のオフィスだ。「<アルバイト>がこんなにも広まったのは、ナチスドイツのせいだわ。」「だって、アウシュビッツユダヤ人収容所の入り口の看板にはアルバイトって文字が書かれていたのよ。」「ドイツ語読みはわからないけど、・・・労働はわれわれを自由にするってね!小学校の美術の先生が言ってたわ。諸君、アルバイトに注意!ってね。」ルゥは、与えられたセリフを読み上げるように、アルバイトに関する注釈を加えた。二人は返す言葉をのみ込んでしまった。ルゥはデスクにつき、再び、資料作成のつづきをするために両腕をキーボードの上にゆっくりとふりかざし、2秒静止させた。ワン・・・そしてトゥー。荘厳なミサでこれからバッハの無伴奏パルティータが演奏されるかのごとく・・午後2時30分・・裏側の丑三つ時だ・・集中して、文字入力をしていると、奇妙な霊感が背中にまとわりついた。なんだろうか。

「われわれの関係を水で割ってはいけない・・・ジャック・ダニエルズを決して水で割ってはいけないように・・・」ベビー・ルゥは、ほんの1時間前、テレパスに届いた電子郵便の文面が、何者かによって消去されていることに気づいた。少し眉間にクエスチョンマークを寄せたあと、ふたたび、資料作成に戻った。息を殺して、霊感のありかを確かめてみようとしたが、完全に明敏な意識を立ち上げることができなかった。キーボードをカタカタ・・・カタカタとキーボード・・・つぶやきはいつも、鳥の如く・・・きらめきはいつも瞳のごとく・・・あなたの・・・トリストラム・シャンディ・・われらが聡明なるダンディ、シャンディ・・・。ルゥは文字盤の配列位置の論理的根拠を確かめようとしながらパンチするよう心理制御した・・・そしてQがアルファベットのなかで左上に配置されているのは、どうしてかしら?・・・はたして・・・Qは前衛なのかしら?・・・そして右下に配置されているMは後衛なのかしら?・・・つぶやいた。・・・「<ラブストーリーは突然に、>といういいかたは、倒置法じゃない?・・・」「なに、倒置法って?」「ほんとうはね、<突然ラブストーリーは、>っていう言い方がただしいのよ。」給湯室でのへヴィーな沈黙は、こんな架空のやりとりをルゥに思い巡らせたことを、ここでまた脳内再現させていた。打った文字を眺めて見る。「ジェット機が離陸してまもなく、急激に振動が起こる。これを専門的には<ソニックブーム>というが、たまに震度2とか、震度3とか言うバカもいる・・・」ルゥの資料作成はいつのまにか、ソニックブームに関するエッセイになっていた。

ルゥは、電源を切って、一番奥のガラス窓に向かって、歩をつないだ。4センチヒールのシンプルなパンプス(あたかも会社に完全な忠誠を誓うデザインであるかのような、それ)が慎重な四拍子を、あるいは軽快なワルツを刻んだ。太陽の光を浴び、光の束に吸い込まれるようにガラス窓に近づき、最後の10メートルで助走をつけ、リズムを乱した。ガッシャーン、バリバリ、とガラス窓が割れ、ルゥは十字架に飛び乗った。オフィスにいた全員が割れたガラス窓に近づいた。ざわめきが訪れた。・・・「どうした?どうした?」と、1秒で言えることを、しかし1時間もかけて発音されているような、ゆるやかに伸びたグラデーションにその場所が膨張していた。デスク上の花瓶も、蛍光灯の光も、お茶菓子に出されていた寅屋の羊羹も、すべてがスローモーションで再生された。ここは平日午後の丸の内・・・43階のオフィスにいた者は、エレヴェータを急降下させ、一人残らず地上へ降りた。平然と時が流れていてた。冷徹なコンクリートの地上はいつもどおりで、会社に忠誠を誓うシンプルなデザインのパンプスのヒール音だけをそこかしこに響かせることに無心になっていた。休憩中のオフィスレディたちが歩いている。・・・「彼ね、なんでマッキーって呼ばれているか知ってる?」「へえ、なんで?なんで?」「キャラメルマキアートが好きなんだって!キャラメルのマッキー。しかも実家がお菓子屋さん!わっはっは。」「へえ、そうなんだー笑えるー。」・・・「笑えるー」と言った女の顔は少しも笑っていなかった。どこからかフラッシュを焚く光がちらちらと視野を遮った。

さて、ルゥはどこへ?虚空へ?神の領域へ?ヘヴィーメタリックな十字架が風に砕けてバラバラになるほどに・・・・たしかにルゥの十字架はものすごい勢いで飛んでいったのだ、きっと、そうだろう。勝手に逃げろ。だがどこへ。