★ リンダ逆上 6








■ リンダ逆上、原因究明のためのパズル/パルス 6





夜になった。気づいたらベビー・ルゥはキッチンで包丁を研いでいた。僕は、室内照明を最小限にし、月明かりを窓からわずかに入れて、部屋に香を焚いた。テーブル上の刺身Aと刺身Bの間にはせせらいだ小川が流れており、その水面から、アンサンブル・ド・コリウムのミニマルミュージックがゆるやかにフェイドインした。隙だらけの雅楽グレナデンシロップをたっぷりふりかけたような音楽は、みるみるうちに目の前の光景を変えていった。ポスト・アスピリンと言われた「マスターフラッシュ」を摂取していたためか、少幸感をともなったほどよい幻覚と幻聴が僕の生理を覆い、そして気づいたらトイレに駆け込んでいた。トイレの本棚にはここしばらく1冊のSF小説が立てかけられてあった。『宇宙の一匹狼』。回想がエスカレートし、僕は心地よい嘔吐を繰り返しながら、以下の回顧を脳中に反芻していた。



かつての僕の友人である須万方(スマガタ)は心密かにSF作家をめざしていた時期があり、当時、コンニャクをモチーフにした異食SFを執筆していた。最初に会ったのは、新宿南口の路上、赤提灯の屋台だった。底冷えする夜だった。終電に乗り遅れて途方に暮れていた時、おでんを食べようと屋台に向かった。隣に座っていたのがスマガタだった。スマガタは「・・・、そやな、日清焼きそばUFOを食べるという行為が、いかにSF的感性を育むか、兄ちゃんにはわからんやろな。
「ええか、UFOを食べるってことは?・・・UFOを食べるってことは?・・・UFOを食べるってことはっ!??・・・・」と、隣に居合わせていた青年に話していた。控えめなアートスクーラーっぽい青年はUFOを無視して「これらのおでんはまるでキュビズムの彫刻のようです。・・・だけど・・・牛すじが混ざったとたん、シュルレアリズム、とりわけタンギーの絵っぽくなるのです。」と、実際に牛スジの串をゆっくりと皿に近づけながら真面目に講釈をしはじめ、スマガタに対抗していた。「あほう!お前はわかっとらん。おれが問題にしているのはやな、キュビズムなんかやあらへん。キュビズムなんぞは高野どうふひとつで充分じゃ。がははは!」・・・そして酔狂きわまったスマガタの顔が、突然僕の方を向き、「お兄さん、そう思いません?」と、むにゃり笑った。僕は返す言葉が見つからず、「そうですね。」と答えておいた。しばらくして、SF作家のジェイムズ・グラハム・バラードがイブ・タンギーの絵を偏愛していたことを思い出して、青年に「バラードの破滅三部作のクライマックス、『結晶世界』は読みましたか?」と聞こうとしたが、彼らの話はいつのまにか「明日の天気」になっていた。(あしたは傘いるよねえ、・・・しっかしこの時代になっても、傘がいるなんて「科学の進歩」はどないなってんにゃろかねえ?)・・・・およそ、一ヶ月後、再び屋台でスマガタと出くわした。彼は、前回ほど酔いが回っておらず、沈着していた。およそ15年前の話だ。いつのまにか月一回のペースで偶然に任せてその屋台で落ち合うようになっていたわれわれは、主に、バカ話80%、SFについての議論20%ほどで談笑した。僕は彼から借り受けた『宇宙の一匹狼』というフレデリック・ブラウンの小説からさまざまな薫陶を得、こんど会った時、いろいろと彼に質問してみようと心待ちにしていた。だが、われわれが再会する事はついになかった。なぜならその屋台が新宿南口にはあらわれなくなったからである。






貯金はすでに底をついていた。煙草が880円から1450円に跳ね上がった頃など、ついに「煙の出るものならなんでもよい」という結論に至り、チェーンスモーカーではなくとも完全なニコチン中毒者であった僕は、落ち葉を拾って吸っていたこともあった。「TOBACCO」がポルトガル語だというだけで、ポルトガル政府に抗議文を送りつけたこともあったし、全世界にある煙草工場の所在を綿密に調べあげ、コンタクトをとり、賞味期限の切れた煙草を大量に買い付ける計画や、苗や種の入手ルートを調べたりしていた。が、そんなことよりも、僕にとっては「火と煙と灰の知覚」がいかに世界規模の隠蔽政治下におかれているか、それらがいかに排除されている方向にあるのか、これはいったいどうしてなのだろうか?という問題の方が大きくなってきた。





ベビー・ルゥはすでに包丁を研ぎ終わっていて、ある瞬間に服をゆっくり脱ぎ始めて、全裸で椅子に腰掛けた。そして爪を研いだ。刺身Aと刺身Bの間に流れていた小川はとっくの前に消滅しており、小川の水面から時折キラキラと跳ねていた刺身用の魚も本流へ帰っていったようだった。





「今日はフライデー・ナイト・バラッズズの日、アイ・ワイ・ディを聴くからお風呂に入る。」とルゥは言った。「アイ・ワイ・ディ」を僕は「ワイワイデイ」と勘違いして、ああヴァラエティの番組か、ヴァラエティか、いいな、と一瞬思った。ルゥは耐水性のポータブルラジオを透明のクローゼットから取り出して、そのままバスルームへ向かった。(2012−1−27)