中平卓馬「アジテイションとしての映画は可能か?」を読む。


オリンピック2020年東京招致の広告批判が盛り上がっている。あのポスターの制作経費にいくらかかっているかはともかく、実現しなかった2016年招致のポスターの制作経費くらいは公にすべきだろう。物事には順番があるのだ。


運動したいものはすればいい。それだけのことだ。だが、オリンピックという、手垢のついたイベントを囮にして、運動を強要せんとする都知事は、間違っている。(イノセよ!あんたは間違っている!)。国家は不具者を最初から欲している(ドゥルーズガタリ)。


今回の広告(プロパガンダ)のデザインはオリンピックとパラリンピックが並列されていることに注意しよう(画像検索)。国家が国家でありうるためには、最初から不具を必要としているのだ。ゆえに国家は最初から不具に呪われている。しかし、国家は周到にこれを理解している。ゆえに未来シュミレーションが有益なものとして最初からみなされる。もっとも最悪な他力本願。


断じて、本能は制度に飼いならされてはいけない。何が、制度的なのか?を、見極めるのも本能だとして。