博物ノート 1



■博物ノート1  八瀬童子天皇と里人〜  京都文化博物館




帰省した折に八瀬童子展へ行ってきた。2年前の正月に帰省した折にも、幼少期に行った八瀬遊園へのちょっとした追慕から、八瀬童子のことが気になり、叡山電鉄に乗って、八瀬に向かった。が、遊園地の跡地に奇妙な佇まいのホテルができたのを確認しただけで、たいした散策はしなかった。八瀬童子にまつわるあれこれが重要文化財に指定されたのは、その6ヶ月後、2010年6月のことである。




去年の暮れに選挙があったが、都知事選ではドクター中松に投票した。が、猪瀬直樹が新知事になった。八瀬童子のことを最初に知ったのは、猪瀬直樹のむかしの著書からだった。



後醍醐天皇の時代は南朝北朝が同時機能していた時代で、今に置き換えていうと、皇居が2つある、ということになるのだろうか。(永田朝と、新宿朝のような)。後醍醐天皇の時代から八瀬童子天皇おかかえだったそうだが、なぜ、後醍醐天皇が彼らを気に入ったのか、は、ちゃんとした説明がなかった。



天皇崩御したしたあと、八瀬童子大喪の礼で輿丁(よちょう)として棺を担ぐことになったのは、明治天皇崩御からのことである。その練習風景を収めたモノクロの写真がニューリー株式会社による最新のデジタル画像処理技術を使って、展示されていた。



後醍醐天皇以前からあったのかどうか、朝廷内には「紙屋院」という製紙機関があり、「宿紙」という、今でいうリサイクルペーパーも作ることができたようで、ようするに、墨で汚した紙を再生するのだから、自然、色が濁る。そんな薄墨色の紙を使った、八瀬童子宛の綸旨(りんじ)書も計25通展示してあった。版木に左右反転させた字を彫りつけ、それがプリントしてあるものもあった。テキストの複製技術のもっとも原始的なものだ。(『八瀬記』、『続八瀬記』という史料もあるようだが、それは展示されていなかった。)




綸旨書のほかは、それらを含めた機密文書を保管しておくための漆の宝箱のようなもの、延暦寺との関係を明らかにする地図、八瀬が大事にしていた十一面観音像、秋元神社の祭り(赦免地踊り)で使用される衣裳、そして大喪の礼で実際に使用された衣裳などが展示されていた。




赦免地(しゃめんち)踊りの映像がモニターから流れていた。踊るのは13歳〜14歳の男子と決まっているらしく、彼らはおしろいをした上に、頬紅をつけ、唇には紅を引く。踊り手が全員女形となるのだが、その衣裳が凝っていて目を引いた。バック・ミンスター・フラーのジオテックドームを簡便化したような被り物をしていて、着物は、とてもカラフルでゴージャス。デザインもイッセイ・ミヤケか?とみまがうばかりの斬新なものだった。それにしても、なぜ女性は踊らないのか?踊れないのか?それはわからない。




いずれにしても、貴重な資料だろう、これを逃すと二度と見られない、と思い、帰省を遅らせたのだった。昭和天皇崩御したとき(昭和63年)は、八瀬童子に変わって、皇宮警察が棺をかついだそうだが、宮内庁から八瀬童子に宛てた「もうしわけない、今回は見るだけで」といった含意の文書(文面はモーニング着用、とか集合は何時にここで、とか)までもが展示してあった。もちろん、それは現代の印刷技術によるものだが。