ダンスノート


■ダンスノート 





かなりおおざっぱに目を通しなおしたが、どちらかといえば『方法序説』ではなく、『省察』でルネ・デカルト心身二元論を展開している。とはいえ、精神に優位性をおいたヨーロッパが、たんに身体を肯定していた非ヨーロッパ圏の身体を下位化するための方便だったのではないか、デカルトの哲学はそのアリバイに使われただけなのではないか、と疑わないでもない。なので、ウィトルウィウスの人体図からダ・ヴィンチへの流れがコルビュジエやミースを用意したのだとしても、近代建築の評価自体が「身体の可能性」を排除する方向に向かわせた、とは言えまいか。というよりも建築物それじたいが身体的身体と非身体的身体を完全に分離したのだ、とは言えまいか。





スポーツ・ジムとそうでない空間が分離されている現代。一方でオリンピックは国際的な祭だ、と称しながら世俗時間を巻き込んでゆく現代。この意味で身体は世界政治と連続しているが、「個々の唯一の身体」が国家にマーキングされることなしに、また、それらを国家同士が承認しあうことになしに、「身体=商品」の陳列棚が可視性にさらされることはない。裏面では、擬似健康科学のおぞましさと、新興宗教のおぞましさとの表裏一体性が確認できる。





瞬間瞬間の身体は、その身体のあり方の別の可能性に貫かれている。ただ、それを瞬間瞬間に忘れさせるのも、政治化/宗教化された身体なのだ。ここに建築する身体はあらわれない。建築をポイエーシス/プレイするのは、建築する頭脳以前に、建築する身体だった。この「健康」を忘れてはいけない、とも思う。





(ある時期の中国人にとっては(ゴダールの『中国女』から推察するかぎりでは)、『毛沢東語録』を読む健康は、体操する健康と連続していたし、日本の子供の夏休みは野口体操の健康と連続していた。が、『聖書』を読む健康はついに問われなかったのだろうか。)







さて、眼に栄養をあたえるため、3時間ほどダンス関係の映像を見ていた。リンディ・ホップ、ブレイク・ダンス、ノーザン・ソウルなど、近代の欧米関係のものだけだが、インド舞踊やフラメンコ、ジプシーやアフリカの少数民族の踊り、アジアの踊り、日本舞踊などいろいろ見て検討すべきだろう。





たとえば右手を前に出す。それが「これから右に振れるのか、左に振れるのか、」と問われると、とたんに、その手を意識してしまうだろう。ためしに右に振ってみる。それとともに体は右に振れようとする。次に左に振ってみる。とともに、体は左に振れようとする。そこで、手が右に振れると、一呼吸おいて必ず左脚を前に出すという規則をつくってみる。すると、手が右に振れて、体が右に振れる、ことをやめ、右に振れた手が左脚を前に出す、というきっかけ(サイン)に過ぎないということがわかる。これを右手、左手でリズミカルに繰り返していると、身体は身体の動きにじゃまされて、身体については何も意識できないようになっているだろう。




気づいたら歩けていた。気づいたら泳げていた。気づいたら自転車に乗っていた。気づいたら逆立ちできた。などの実現過程も、身体を意識しないように、つまり身体と頭を分離したうえで、頭で身体を考えないようにするためのなんでもない純粋リズム習得の技術だったとはいえまいか。




ブレイクダンスの動画を見ていて驚くべき発見があった。繰り返しになるが、身体は身体にとっての建築である。ということだ。それも高速逃走の建築である、ということだ。




身体は二重化されていて、なので、身体は二つある。そのように仮定してみることができる。操作する身体(追う身体)と操作される身体(逃走する身体)を二重に持つことによって建築する身体と建築される身体が生まれている。としか思えない。身体が単一であっても、その中心は単一ではない。中心は常に移動し、常に組み替えられてゆく。




ブレイクダンスウロボロスの蛇という象徴化ではなく、生成消滅というバブル思想でもない。デカルト心身二元論よりも遥かに高度な思想がここにあるようでならない。そして、どうしてもフランシス・ベーコンの絵画、高速回転するゴーストの顔やアントナン・アルトーの「器官なき身体」という概念をあてはめて考えてみたくもなるが、解釈している場合ではない、とも思う。細部までもっとよく見たほうが面白い。







ブレイクダンス。身体は音楽に先行?




女の子3人組。身体は音楽に同期?非接触




かっこよすぎ。非接触




ちょ〜楽しそう。接触