つながる、とか


■つながる、とか





昨日のつづき。ハンドクリームが450円でそれを450円支払って購入する人は、互いにつながっているといえるのだろうか。それはいえるだろう。おのおのをつなげているものはいくつかある。まず、手を潤したいという生理的な欲求。その次に、ハンドクリームという固有の物体。その次に450円という値段。この三つそれ自体には幻想がはいりこむ余地はない。幻想が幻想として機能するのは、もっとあとのことで、ハンドクリームを実際に使ってみて、しまった、これではなかった、というふうに見出されることである。これではなく、あれにすればよかった、という過去完了へと向かわせる事後性こそが、幻想のコアとして結果的に胚胎される。商品の原価は原価に過ぎず、操作可能な価値(俗にいうコンセプト)だけが売り物の価値以上の価値(余剰価値)に直結するのであれば、欲望の再生産とは、最初から再生産する価値のないものでしかなかった、ということもできるだろう。食って、寝て、働いて、というだけでは済まされない世界がここにある。だが、ほんとうにそうなのか?




貨幣経済は複雑に絡み合った社会、価値のバラバラさ加減にみあった幻想のバリエーションを増産させてゆく。幻想を購入せよ、すると君の病気は治る。「つながる」「つながれ」「友達を増やせ」「もっと、もっと、動け」「いろんなことを楽しみ、そして毎日ネットにかきこめ」と、ネット経済がわめきちらしている光景は、貨幣経済のいい加減さ、でたらめさ、に対する不安の裏返しでしかない。「われわれが恐れているのは、取り残されること、そういう不安を、不安として正しく受容してほしい、」ということをネット社会は、長らく、不気味に主張しつづけている。




人が過去を持つということは、人という人称化以前に、無数につながろうとし、またつながらそうとする接続装置自体が、過去化のプログラムを装填しているからだ、という言い方もできるだろう。(石碑からインターネットまで)。ある特定の商品を購入しようと思い、いくらかの金銭を渡すというそのありふれた光景。これは現在であり、現在を保証するものであるかぎり、過去の表象ではない。そうやって現在のつながりが確認される。われわれをつなげているのは、まず天体であり、貨幣である。天体は過去の自我を生みにくい(誰が、3日前の天気を気にするだろうか)が、貨幣は過去の自我を再生産する。(3日目にあった金がもうなくなってしまった、いったい何に使ったのか)そうやって時間化される差異こそが、この世のいっさいの差異を差異として規定している。明日は予報では雨だが、それに2000円支払うから午後1時から2時まで雨を止めてほしい、ということは、現在の科学ではできない。




貨幣と商品を交換する二つの手は、いかにも、捉えがたい謎に満ち満ちている。ここで起こっていることの複雑怪奇は、経済学者、社会学者が歴史的にいくつもの研究を重ねているのだろうが、込み入った話はここではできない。




いちばん強力なものは手を潤したいというありふれた欲求であり、しかし、まずこれがなければ、ハンドクリームは需要もされない。だが、そういう単純明快な欲求を、どんどんと複雑にしてきた「欲望する時間」、または「欲望する時間差」を生んでいるのが、じつのところ、ただただ消費したい、というこれまたいかにもありふれた欲望なのだ、というケースもある。たとえばそれはハンドクリームでなくてもよかった。この反省機能は貨幣経済がもたらす、メジャーな要素であり、こういうことはどうしようもない。買うのは馬鹿ている、しかし買わないもはもっと馬鹿げている。盗むのは犯罪者。もらうのは乞食。無視するのが正解か。だとしても欲しい。ローンで買うのはセンスがない。今欲しい?来年でもよい?どうでもいい?そう、じつのところ、貨幣経済は、どこまでも時間を利用し、時間に利用された消費者こそを必要としている。そうして未来はどんどん希薄になってゆく。未来がまるで現在そのものであるかのように。