脚本は<あしもと>の隠喩だ。靴底をすり減らすことによって近代的物語ーストーリーは継続される。登場人物を動かすこと。決して腰を落ち着かせないこと。なるべく役者を「息切らす」こと。「俳優に動きを与えることなしにストーリーは成立しない」これを自明の前提とした近代脚本(脚本の人間主義!)。靴底の摩滅とドラマ構築のエントロピーは比例する。また、それは近代脚本が<映画における身体表象において抑圧してきたもの>の量にも比例する。台本は<ステージ=台>の隠喩であり、脚本ではない。<動き>はあってもかまわない、しかし「歩く、走る」にただただ還元される脚本はまだまだ演劇的であり、世界=ステージ(台)の隠喩から逃亡しきれていない、と言える。